一万人の戦国武将

享徳の乱(きょうとくのらん)

別名
年月日 1454年12月27日~1482年11月27日
場所 関東地方(相模国鎌倉郡(東郡)鎌倉(鎌倉(足利)公方邸))
神奈川県鎌倉市浄明寺4丁目
交戦勢力 鎌倉公方足利家古河公方足利家
結城家
堀越公方(足利将軍家
関東管領(上杉家)
総大将 足利成氏
成潤(足利義氏)
足利政知
参加武将 足利成氏
定尊
結城成朝
結城氏広
多賀谷氏家
多賀谷朝経
簗田持助
小山持政
小山成長
宇都宮明綱
宇都宮正綱
宇都宮成綱
里見義実
小田持家
小田朝久
小田成治
武田信長
武田信高
酒井定隆
岩松持国
岩松次郎
岩松成兼
那須資持
那須資実
成田正等
筑波潤朝
馬加康胤
原胤房
原胤茂
千葉孝胤
長尾景春
高梨政高
村上政清
印東式部少輔
足利政知
渋川義鏡
上杉教朝
上杉政憲
上杉房顕
上杉顕定
長尾景仲
長尾景信
長尾忠景
大石房重
大石顕重
上杉持朝
上杉顕房
上杉政真
上杉定正
太田資清
太田資長
三浦時高
大森氏頼
上杉房定
上杉定昌
上杉憲秋
上杉持房
上杉教房
長尾景人
長尾定景
長尾房清
長尾景長
岩松家純
横瀬貞国
横瀬国繁
横瀬成繁
那須氏資
那須明資
千葉胤直
円城寺尚任
円城寺直時
円城寺日向守
千葉胤宣
千葉胤賢
大掾頼幹
大掾幹正
狩野朗典
千葉実胤
千葉自胤
東常縁
東頼数
浜春利
宇都宮等綱
本庄信明
今川範忠
今川義忠
武田信昌
小栗助重
小笠原光康
結果 堀越公方(室町幕府)と鎌倉公方(古河公方)の和睦

戦いの背景

1352年~ 観応の擾乱を受けて足利尊氏が設置した鎌倉府は、五男である足利基氏の子孫が世襲した鎌倉公方(元は関東管領と言った)を筆頭に、上杉家が代々務めた関東管領(元は関東執事と言った)が補佐する体制であった。
1416年 次第に鎌倉公方は室町幕府と対立し、関東管領とも対立していった(上杉禅秀の乱)。
1438年
6月
足利持氏の嫡子の賢王丸(足利義久)が元服すると、上杉憲実は慣例に従い将軍の一字拝領を賜るよう進言するが、足利持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせ、源義家に擬して「八幡太郎」の通称を称させて鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げる。この頃には足利持氏が上杉憲実を暗殺するという噂が立ち、上杉憲実は足利義久の元服祝儀にも欠席している。足利持氏に嫌疑をもたれた事に対し、不本意として自害を試みたが制止させられた。(永享の乱)
1438年
8月
上杉憲実は難を逃れるために鎌倉を出奔して領国の上野国平井城に下る。なお、京都の足利義教は上杉憲実は必ず自分を頼って京都に赴いて足利持氏打倒を訴えると考えていたらしく、既に駿河国の今川範忠に上杉憲実の庇護を命じていたため、この対応に困惑したと言う。足利持氏は上杉憲実討伐のために一色直兼・一色時家に旗を与えて派兵し、自らも出陣した。室町幕府は関東での事態に対して、足利持氏討伐の兵を下すと共に、信濃国の小笠原政康に上杉憲実救援を命じている。(永享の乱)
1438年
9月末
小笠原軍は上野国板鼻に入って北上する鎌倉軍を打ち破った。(永享の乱)
1438年
11月
上杉憲実は武蔵国分倍河原に着陣し、先鋒の一色軍を破る。上杉憲実自身は旧主を攻めることをよしとせず、自らの軍の兵を進めることはなかったが、家宰の長尾忠政が代わりに兵を進めた。鎌倉軍は幕府軍に敗れ足利持氏は出家して永安寺(鎌倉)に入った。上杉憲実は幕府に足利持氏の助命と足利義久の鎌倉公方就任を再三再四嘆願するが、足利義教はこれを許さず上杉憲実に足利持氏を殺すよう命じ、上杉憲実が足利持氏・足利義久の父子の成敗を固辞している姿勢を、逆に足利持氏の翻意に荷担していると嫌疑がかけられた。上杉憲実はこのままでは足利義教に自らも攻め滅ぼされるか自害に追い込まれる事を覚悟して足利学校に五経疏本・孔子図など書籍や絵画を寄進して一旦は身辺整理を行う。(永享の乱)
1439年
2月10日
上杉憲実は永安寺を守っていた上杉持朝千葉胤直に殺害を命じて、足利持氏と足利義久は自害した(永享の乱)。
1440年
3月
足利義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝・結城持朝の父子などが足利持氏の遺児の足利春王丸・足利安王丸・定尊を奉じて挙兵する結城合戦が起こる。
1440年
7月29日
室町幕府は、総大将・上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、結城氏朝らの立てこもった結城城を包囲した(結城合戦)。
1441年
4月16日
結城氏朝・結城持朝は討死し、結城城は落城した。足利持氏の遺児のうち、足利春王丸・足利安王丸は足利義教の命を受けた長尾実景によって美濃国で殺された。定尊は京都に送られた(結城合戦)。関東地方は室町幕府の強い影響の元、上杉家の専制統治がなされた。
1441年
6月24日
嘉吉の乱により足利義教が赤松満祐に殺害される。
1441年
9月頃~
鎌倉府再興の運動が開始された。
1444年 山内上杉家の当主を兼ねるようになった越後国守護の上杉清方が急死し、上杉憲実が関東管領に復帰を承諾しなかったため、鎌倉公方と関東管領が両方とも空位となり関東の政治は停滞した。そこで長尾景仲は扇谷上杉家の家宰で婿の太田資清と相談して上杉憲実の長男の竜忠(上杉憲忠)を連れ出して関東管領を継承させた。しかし、いとこの佐竹実定に家督を継がせようとした上杉憲実はこれを認めなかったため、長尾景仲は上杉憲実・佐竹実定を排除して上杉憲忠を擁立することになった。
1447年
3月
室町幕府は関東地方の安定を図るため、鎌倉府の再興を願い出ていた越後国守護の上杉房朝や関東諸士、上杉家一門・家老、室町幕府管領の畠山持国の支持などの結果、足利持氏の子の足利成氏を立てることを許し、鎌倉府は再興された。
1447年
7月10日
鎌倉府では、足利持氏が滅ぼされた原因となった上杉憲実の子である上杉憲忠が父の反対を押し切り関東管領に就任した。
1447年
8月
信濃国から相模国鎌倉に帰還した足利成氏は、鎌倉府再興のために運動した足利持氏旧臣や足利持氏方諸豪族、及び結果的には足利持氏を殺した上杉家など、利害が相反する人々の間に置かれることになった。上杉憲忠は、足利成氏を補佐し始めたが、足利成氏は足利持氏派であった結城家、里見家、小田家等を重用し、上杉家を遠ざけ始めた。上杉憲忠や家臣団は彼ら足利成氏派(反上杉派)に反発した。
1449年
11月29日
鎌倉御所が完成し、足利成氏は移った。
1450年
4月
鎌倉府再興後も、足利成氏の元に集まった旧足利持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷上杉家の両上杉家との緊張関係は改善されなかった。相模国鎌倉郡長尾郷が足利成氏の命令で簗田持助に押領される事件が起きた。この地はその名の通り長尾家発祥の地であり、そこにある御霊宮は長尾家一門の祖先祭祀の中心であった。この事態に長尾景仲ら長尾家一族は激しく憤慨して足利成氏に激しく抗議したが、足利成氏側は返還には応じようとしなかった。
1450年
4月20日
関東管領を務めた山内上杉家の家宰の長尾景仲及び扇谷上杉家の家宰の太田資清らは、鎌倉に兵500騎を入れて謀反を起こそうとした。足利成氏は事前に情報を入手すると鎌倉から江の島に立て籠もった。
1450年
4月21日
長尾景仲らは江の島に迫り由比ヶ浜で両軍は交戦した。小山持政千葉胤将小田持家宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。この時事情を知らない上杉憲忠は足利成氏の救出のために小幡家らを出陣させた。長尾景仲と太田資清は前扇谷上杉家当主の上杉持朝の糟谷館に逃げ込んだ。上杉憲忠は事件に全く関与していなかったが、襲撃したのが長尾家・太田家の兵であると知って謹慎してしまった(江の島合戦)。
1450年
5月
難を逃れた足利成氏は、上杉憲実の弟である上杉重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉家の上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領畠山持国は足利成氏の求めに応じて、上杉憲実・上杉憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵・上野の中小武士に対して足利成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の足利成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。
1450年
10月頃
上杉憲忠は関東管領として鎌倉に帰参した。足利成氏は長尾景仲方の武士の所領を没収した。これを契機に、足利成氏と長尾景仲ら上杉憲忠の家臣団との対立は所領問題に発展していった。その後も足利成氏側・上杉憲忠側双方の武士が対立陣営の所領を押領する事件が頻発した。このため、上杉憲忠と上杉持朝は足利成氏の打倒を計画する。
1452年 室町幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わった。細川勝元は鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡した。関東管領を通じて、再び幕府が関東を直接統治する意思を示したものである。兄の成潤が還俗し、足利義氏と名乗り足利成氏に代わる鎌倉公方となるべく結城直朝に常陸国の小栗六十六郷の宛行を約束し、幕府の要人である細川持賢との連絡を賞し下野国について宇都宮家との相談を行うよう促す書状を送った。

戦いの経緯

1454年
12月27日
長尾景仲が長尾郷の御霊宮に泊りがけで参詣に出て鎌倉不在の隙に足利成氏は、上杉憲忠を御所に出仕させた。御所に入った上杉憲忠を結城成朝里見義実武田信長印東式部少輔が300人の手勢を連れて取り囲み、館に乱入した。上杉憲忠は主従22人で切先を揃えて防戦したが、とうていかなわず、ひとり残らず討死にした。結城成朝の家臣の多賀谷氏家多賀谷朝経の兄弟によって上杉憲忠は謀殺された。さらに岩松持国が管領屋敷を襲撃し、長尾実景長尾景住の父子も殺害した。上杉憲忠謀殺の報せを聞いた長尾景仲は鎌倉に戻ると、直ちに管領屋敷に火を放つと共に上杉憲忠の正室(上杉持朝の娘)ら生き残った人々を上杉持朝の糟谷館に避難させた。糟谷館に着いた長尾景仲は、上杉持朝ら上杉一族の要人と協議して京都にいる上杉憲忠の弟の上杉房顕を次の関東管領に迎え入れると共に足利成氏を討伐する事を決めた。更に長尾景仲はそのまま領国の上野国に入って兵を集めると共に、使者を越後国守護の上杉房定に派遣して援軍を求める一方、嫡男の長尾景信を直接京都に派遣して事の次第を室町幕府に報告、上杉房顕を迎える事にした。この上杉憲忠の謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発する。
1455年
1月5日
足利成氏は上杉家の本国である上野国を攻略するために鎌倉を出発して武蔵国府中の高安寺に入った。この報せを聞いた上杉持朝はその留守に鎌倉を奪おうとして出陣した。
1455年
1月6日
上杉持朝は相模国島河原で鎌倉の留守を預かっていた武田信長の迎撃にあって敗退した。この報せを聞いた長尾景仲は直ちに上野国・武蔵国の兵を率いて府中に向けて出撃し、上杉一族もこれに合流すべく出陣した。
1455年
1月24日
長尾景仲らは分倍河原の戦いで足利成氏軍の前に大敗を喫して扇谷上杉家当主の上杉顕房、犬懸上杉家の上杉憲秋ら名だたる武将を多く失い、難を逃れた長尾景仲だけが残った軍をまとめて辛うじて小栗助重の居城の常陸国小栗城まで落ち延びる事が出来た。
1455年
1月末頃
かねてから親上杉派である千葉胤直と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた重臣の原胤房亥鼻城を攻撃した(千葉合戦)。
1455年
2月
分倍河原の戦いで勢いに乗じた足利成氏は武蔵国内の上杉側の拠点を次々と攻略した。
1455年
3月3日
長尾景仲が小栗城にいると知ると足利成氏は下総国古河に入り、結城成朝・那須資持筑波潤朝小田朝久・簗田持助・小山持政らの加勢を得て小栗城の攻撃を開始した。
1455年
3月
山内上杉家は、上杉憲忠の弟・上杉房顕を後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は管領の細川勝元の意向で足利成氏の討伐令が上杉家をはじめ、周辺の守護である駿河国守護の今川範忠・信濃国守護の小笠原光康・下野国守護の宇都宮等綱・下総国前守護の千葉胤直に下された。後花園天皇から足利成氏追討の綸旨と御旗を得たために、足利成氏は朝敵となった。
1455年
3月20日
原胤房に攻められていた亥鼻城が落城し、千葉胤直・千葉胤賢千葉胤宣・円城寺尚任は千田荘に逃れ、多古城志摩城に籠城した。
1455年
4月
千葉胤直の叔父の馬加康胤が馬加から千田荘に進軍して原胤房と合流した。原胤房は馬加康胤の出陣を喜び、馬加康胤を多古城攻めの総大将とし、原胤房は千葉胤直らが籠もる志摩城を攻めた(多古城・志摩城の戦い)。
1455年
4月3日
在京していた駿河国守護の今川範忠が、後花園天皇から錦の御旗を受け取ると上杉家の援軍として鎌倉に向けて京都を発った。
1455年
4月19日
足利成氏の要請を受けた那須資持は下野国茂木城を攻めた。
1455年
閏4月8日
千葉胤直らのもとに原胤房からたびたび降伏が勧められたが、千葉胤直はこれをはねつけて籠城を続け、京都でこの報告を受けた室町幕府将軍の足利義政は千葉胤直を賞して太刀一振を遣わす御内書を発給した。さらに足利義政は今川範忠に関東への出陣を命じた。
1455年
閏4月
足利成氏は上杉勢が立て籠もる小栗城を陥落させた。長尾景仲は上野国に逃れた。関東管領の上杉房顕は上野国平井城に入り、越後国上杉家の援軍と小栗城の敗残兵が、下野国天命・只木山に布陣した。
1455年
5月8日
上杉房顕は千田荘で籠城を続ける千葉胤直らを救うため、常陸国信太荘の山内衆へ軍勢催促状をおくり、下総国境に陣を張って円城寺尚任と連絡を取り合い、その後に川を超えて下総国へ攻め入るように指示した。これに応えて大掾頼幹大掾幹正の父子は志摩城に入城した。
1455年
6月5日
上杉勢は上野国三宮原で足利成氏と戦い打ち勝った。
1455年
6月16日
足利成氏は上杉方の攻略に手間取っている間に木戸家・大森家・印東家・里見家が守る本拠地鎌倉を今川範忠により占拠された。その後、足利成氏は鎌倉を放棄し、下総国古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設けた。古河城を居城とするため修復が行われた。野田持忠は下野国野田城に入り上杉家に対抗した。古河を新たな本拠とした理由は、下河辺荘等の広大な鎌倉公方御料所の拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は足利成氏が後に兄と呼ぶ(兄弟の契盟)ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城家の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の1つになった。
1455年
6月24日
足利成氏は、天命・只木山の西に布陣して対抗した。
1455年
7月
足利成氏は、下野国小山に移動した。京都では享徳から康正に改元されるが享徳を使用し続けた。
1455年
7月25日
上杉勢は下野国穂積原で足利成氏と戦い打ち勝ち下野国足利まで進出した。
1455年 勝長寿院門主であった成潤は自らが別当を兼務する日光山に奔って上杉方と通じ対抗する軍事行動を取り始める。
1455年
8月12日
援軍に駆けつけた大掾頼幹・大掾幹正の父子と合流して馬加康胤・原胤房と戦ったが、大掾頼幹・大掾幹正・円城寺尚任・円城寺日向守狩野朗典らは討死した。馬加康胤は、城を遠巻きにして兵糧を止める長期包囲の作戦をとっていため、籠城の兵は日に日に困窮し、逃亡するものが相次ぎ、20人余りになり、千葉胤宣は円城寺直時を馬加康胤のもとへ派遣して開城する旨を伝えた。千葉胤宣は城の近くの阿弥陀堂で自刃した。円城寺直時は千葉胤宣の介錯を務めた後、自らも自刃した。
1455年
8月15日
原胤房に攻められた千葉胤直・千葉胤賢は志摩城に籠城していたが陥落し、、千葉胤直は大野小五郎らと東禅寺に走り一族郎党とともに自刃した。千葉胤賢は子の千葉実胤千葉自胤とともに脱出し、上総国武射郡小堤城に逃れた。
1455年
9月7日
千葉胤賢は小堤城で自刃したが、千葉実胤・千葉自胤は八幡荘の市河城まで逃走した。
1455年
10月頃
千葉実胤(千葉宗家)と原胤房・馬加康胤が対立していることを聞いた室町幕府将軍の足利義政が千葉家の同族で奉公衆の東常縁に鎮圧を命じた。副将として同じく奉公衆の浜春利を同行して下総に下向した。下総国香取郡東庄の東大社へ参詣して戦勝を祈願し、「静かなる 世にまた立やかへならむ 神と君との恵み尽せす」と詠んだ。献歌を終えた東常縁は、下総国守護代の国分憲胤・大須賀憲康らをはじめとする千葉一族と合力して、原胤房を攻めた。
1455年
11月13日
東常縁は馬加城と小弓城を攻め落としたが、東常縁方の原胤氏・原胤致が討ち死にした。
1455年
11月24日
東常縁は原胤房と馬加で合戦となり、打ち破った。戦い敗れた原胤房は千葉へと逃れ去った。その後、浜春利を東金城の守りにつかせ、東常縁は東庄へと移った。
1455年
12月
足利成氏は、下野国天命・只木山の陣を崩壊させ、上杉勢を騎西城まで撤退させた。武田信長らは長尾景仲の籠もる武蔵国騎西城を攻め落とした(武蔵須賀合戦)。
1456年
1月
足利成氏は市河城に立て籠もっていた千葉実胤・千葉自胤を追討するため簗田出羽守・南図書助らを市河城に派遣した。これにより古河公方側が有利となり、行方をくらませていた原胤房・馬加康胤も簗田勢に属して市河城に攻め寄せた。このとき、東常縁も救援のため市河城に入っており、寄手の大将から降伏勧告があったが、「籠城しける時よせての大将より降参せよといひけるによみてつかはしける 命やはうきなにかへんよの中にひとりとヽまる習あれとも」と詠んで遣わし、降伏を拒んだ(市河城の戦い)。
1456年
1月9日
市河城が陥落し、千葉実胤・千葉自胤は武蔵国へ、東常縁は東庄の近い下総国匝瑳郡へと逃れた。
1456年
2月7日
体制を立て直した東常縁は匝瑳郡惣社である匝瑳老尾神社に阿玉郷の中から三十石を寄進して戦勝祈願をした。上杉家は下総国に援兵を派遣し、東常縁・上杉勢は馬加城を攻め落とし、原胤房はふたたび行方をくらませた。
1456年 上杉派の宇都宮等綱が足利成氏に居城の宇都宮城を包囲され、足利成氏に寝返った重臣達に追放され流浪、息子の宇都宮明綱は降伏して足利成氏に従った。
1456年
4月4日
足利成氏は室町幕府管領の細川勝元に対して、上杉家との抗争であり、室町幕府には反意がないことを主張したが、回答は得られなかった。
1456年
6月12日
東常縁は馬加康胤の子の馬加胤持を討ち取った。
1456年
9月17日
足利成氏は、武蔵国岡部原合戦で上杉房顕に勝利した。この頃、上杉家の領国だった上総国と安房国に武田信長、里見義実を派遣した。
1456年
11月1日
東常縁は上総国八幡の村田川にまで逃れた馬加康胤を討ち取った。
1457年
4月
千葉家の外戚である扇谷上杉家の家宰の太田資長が江戸城を築城する等、古河公方側に圧力をかけ続けた。しかし、千葉実胤・千葉自胤は確たる所領を持たないため経済的に逼迫し、下総国への帰還も思うに任せない状態であった。
1457年
6月23日
上杉家は室町幕府に関東への援軍を要求した。これに応じた室町幕府将軍の足利義政は渋川義鏡を関東探題として関東に下向させた。渋川義鏡は蕨城を拠点に兵を募ったが、関東の諸将は足利成氏に加担するものが多く不足であった。渋川義鏡は足利義政に将軍家の者(足利政知)の派遣を要請したと思われる。渋川義鏡が関東に下向したのは武蔵国蕨郷に分家が存在していたこと、渋川家が足利家一族でも家格が高い家柄であることが理由ではないかと思われる。
1457年
9月
京都では、康正から長禄に改元されたものの、足利成氏は享徳を使用し続けて、室町幕府に抵抗する意思を示す。
1457年
10月
足利成氏は、修復が終わった古河城に移った。
1457年 上杉房顕は、五十子陣を築城し、足利成氏は、古河城を中心として、直臣の簗田持助を関宿城、関東野田家を栗橋城、一色直清を幸手城、金田則綱を菖蒲城、佐々木(小田)家を騎西城に置くなど攻守網を形成した。
1458年
6月頃
室町幕府将軍の足利義政は足利成氏への対抗策として、前年に還俗させた異母兄の足利政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。足利政知には山内上杉家の他、渋川義鏡・上杉教朝などが配下として付けられていたが、実権は全て室町幕府に握られており、関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができなかった。そのため、鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆国田方郡北条の国清寺に御所を構えた。以後、おもに下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野国・武蔵国・相模国・伊豆国を勢力範囲とした室町幕府・堀越公方・関東管領の山内上杉家・扇谷上杉家勢力とが、関東を東西に二分して戦い続ける。武蔵国北部の太田荘周辺と、上野国東部が主な戦場であった。
1458年
9月
室町幕府は五十子陣へ諸大名に命じて足利成氏の征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏と甲斐将久は両者がお互いを警戒して動かず(長禄合戦)、結城直朝のいる奥羽では国人達が抗争を繰り返していたため、討伐軍は依然として兵力不足であった。
1459年 上杉家が足利成氏に対抗するため、河越城(川越城)・岩付城(岩槻城)・江戸城などの攻守網を完成させた。
1459年
10月14日
上杉房顕は、太田庄の戦いにおいて大敗を喫したが、足利成氏が撤退したため五十子陣は上杉軍に確保された。以後、両陣営は付近の五十子陣を挟んで長期にわたって睨み合った。
1460年
1月
今川範忠が駿河国に帰還したため討伐軍の編成は思う様に進まなかった。今川範忠の帰国は長禄合戦の影響で遠江国で戦乱が起こり、一族の今川範将が遠江国に侵攻したことが関わっているとされる。
1460年
4月
足利政知の陣所である国清寺が足利成氏方に焼き討ちされる事態にまでなり、足利政知は堀越に御所に場所を移した。足利成氏討伐どころか自らの命さえ危うい状況であり、足利政知は使者を京都へ向かわせ幕府と対応を協議した。以後、堀越公方と呼ばれるようになる。
1460年
8月
斯波家も遠江国へ鎮圧のために甲斐敏光と朝倉孝景が出兵し、関東にも出陣した。この機に乗じて足利政知は斯波軍を利用して鎌倉に入ろうとしたが、足利義政に制止された。
1460年 堀越公方の足利政知は尚も戦力不足であり、さらなる軍事動員が必要であると室町幕府に訴えている。
1461年 岩松持国・岩松次郎の父子が従兄の岩松家純に謀殺される。
1461年
7月頃
上杉持朝の相模国守護活動が堀越公方の足利政知によって停止され、その支配権を接収した。
1461年
10月16日
足利義政の特命により、斯波家の家督は斯波義寛を廃嫡し、渋川義鏡の子の斯波義廉が相続することになった。足利政知の要望に応じ、執事である渋川義鏡が「斯波家当主の実父」という立場から足利一門最強の斯波軍を動員することができるように工作したとされる。
1461年 渋川義鏡とともに足利政知を支えていた上杉教朝が自害し、子の上杉政憲が跡を継いで関東に下向した。このとき扇谷上杉家家宰の太田資清も隠居した。
1462年 上杉持朝の謀反の噂が流れた。足利義政は足利政知に上杉持朝の保護を命じたが、三浦時高・大森氏頼・大森実頼の父子・千葉実胤ら扇谷上杉家の重臣が隠遁した。この出来事と上杉教朝の自殺、太田資清の隠居は連動しており、これらは堀越公方の足利政知が室町幕府に上杉持朝を讒言した為、重臣が代わりに責任を取った結果であり、黒幕は渋川義鏡だとされた。足利義政の御内書は渋川義鏡には出されなくなり失脚し、足利成氏討伐軍の編成は失敗に終わった。
1463年
12月
上杉房定は上杉右馬頭を大将として足利成氏方であった信濃国の高梨政高を攻めた。この侵攻で上杉右馬頭は討死し、敗北した。
1465年
6月
8代目将軍の足利義政は信濃国守護の小笠原光康に対し上杉房定と協力して村上家・高梨家を退治するよう命じた。
1465年 長尾景人が上杉房顕の推挙を受けて室町幕府から足利家発祥の地の下野国足利庄の代官職に補任される。
1465年 室町幕府が、今川義忠と武田信昌に関東出陣を命じたが、武田信昌がこれに従ったかは不明。
1466年
2月12日
上杉房顕は、五十子で病に倒れて陣没。これに対して室町幕府は上杉房定の子を上杉房顕の養子として後を継がせるように命じた。これを受けて上杉房定の次男の上杉顕定が後継者となった。
1466年
11月15日
長尾景人は、下野国足利庄に勧農城を築いて上杉方の拠点とした。
1467年
5月26日
京都では度重なるお家騒動を発端として細川勝元派(東軍)と山名持豊派(西軍)に分かれて争う応仁の乱が勃発、室町幕府は関東に軍勢を送れなくなってしまった。今川義忠は足利政知と相談の上で1000騎を率いて上洛することとなった。
1468年 上野国で綱取原合戦が勃発、上杉方が勝利した。
1469年 足利成氏についた岩松持国の次男の岩松成兼が上杉方の岩松家純に追放され、岩松家を岩松家純が統一する等、徐々に上杉方は反撃に打って出た。
1469年頃 下総国において千葉家の分家の印東庄岩橋村の領主岩橋輔胤らが本佐倉城を築城するなど足利成氏方として反抗を続けた。
1469年
4月21日
応仁の乱で東常縁が斎藤妙椿に美濃国の所領を横領されたため、子の東頼数を下総国に残して帰京し、千葉家の軍事力が低下した。
1471年 東常縁が堀越公方の足利政知につけられて関東に下向して、三島に在陣した。
1471年
3月
足利成氏は小山家・結城家の軍勢と共に遠征して、伊豆国の堀越公方を攻めたが、敗れて古河城に撤退した。この遠征失敗の影響は大きかった。室町幕府の帰順命令に、小山家・小田家等の有力豪族が応じるようになったため、古河城も安全ではなくなった。
1471年
4月
長尾景信は総大将として上杉軍を率いて下野国に攻め入り、赤見城や樺崎城を落とした。
1471年
5月
上杉勢の長尾景信が古河に向けた総攻撃を開始すると、古河城を陥落させ、足利成氏は、本佐倉の千葉孝胤の元に退避した。
1471年頃 岩橋輔胤の子の千葉孝胤が千葉家当主を自称し、足利成氏も千葉孝胤に頼らざるを得なかったためこれを認めた。
1472年 千葉孝胤、結城氏広、那須資実や弟の尊敒の支援により、足利成氏は古河城に帰還し、後に小山家も再び足利成氏方に戻った。
1476年
6月
上杉家有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事(家宰・家務)になれなかった不満のため、武蔵国鉢形城にて挙兵した(長尾景春の乱)。
1477年
1月18日
長尾景春が武蔵鉢形城を拠点として上杉勢の五十子陣を攻撃し、これを破壊したため(五十子の戦い)、対古河公方攻守網が崩れる。上杉家の動揺は大きく、古河公方勢との戦いだけではなく、上杉家内部の対立や山内・扇谷両上杉家間の対立が大きな問題となった。
1478年
1月
危機感を抱いた上杉顕定は、足利成氏と和睦を成立させた(この年を最後に足利成氏側の文書から「享徳」の元号が消えることになる)が、長尾景春と組んだ千葉孝胤は和睦に反対した。
1478年
12月10日
千葉自胤は足利成氏の合意もあり太田資長の支援を背景にして千葉孝胤追討に立ち上がり、境根原合戦に勝利した。千葉孝胤らは軍勢をまとめて退却し臼井城に籠城した。
1479年
7月15日
臼井城を落城させ、下総国・上総国の大半を制圧した。しかし、この20年の間に岩橋輔胤・千葉孝胤による千葉領支配体制は既に完成しており、同地に支持勢力を有さなかった千葉自胤は上杉家の内紛に巻き込まれていく中で撤退を余儀なくされ、結果的には千葉孝胤の子孫による下総千葉家継承が確定される事となった。千葉自胤は武蔵千葉家と呼ばれるようになる。
1479年 長年難航していた室町幕府との和睦交渉も、越後国守護の上杉房定が室町幕府管領の細川政元との仲介に立つことで進展した。
1482年
11月27日
室町幕府と足利成氏との和睦が成立した(都鄙合体)。これによって足利成氏が引き続き関東を統治する一方で、伊豆国の支配権については足利政知に譲ることになった。足利成氏による反幕府的行動は停止されたが、配下の諸将を多く持つ古河の足利成氏と、室町幕府公認の公方として権限を持ちながら関東に入れない堀越の足利政知の2人の公方が並存する状態は依然として続くこととなった。