一万人の戦国武将

上杉憲実(うえすぎのりざね)

生年月日 1410年
没年月日 1466年閏2月6日
幼名 孔雀丸
通称 四郎
別名 雲洞庵長棟高岩
官位 安房守
家系 越後上杉家
山内上杉家
上杉房方
養父 上杉憲基
正室 一色家の娘
側室

年表

1410年 越後国守護の上杉房方の三男として越後国で生まれる。幼名は孔雀丸。
1418年 従弟で関東管領の上杉憲基が死亡したため、その後継者に選ばれ鎌倉へ入り、偏諱(山内上杉家の通字「憲」の字)を受けて憲実と名乗る。
1419年 室町幕府の出先機関の鎌倉府において鎌倉公方を補佐する関東管領に就任する。
1420年 上野国・武蔵国・伊豆国の守護になる。
1423年
6月~8月
常陸国の小栗家征伐に出陣し、小栗城を攻め落としている。
1428年 室町幕府4代目将軍の足利義持が死亡し、籤引きで足利義教が6代目将軍に就任した。上杉憲実の主君で4代目鎌倉公方の足利持氏は自らが将軍候補に選ばれなかったことに不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするが、これを諫止する。
1431年 足利持氏が幕府の改元を無視すると謝罪の使節を派遣した。
1432年 鎌倉府が横領していた所領を室町幕府に返還した。幕府で足利義教の富士下向が協議されると、上杉憲実は警戒して関東情勢の不穏を理由に下向の延期を促し、室町幕府の醍醐寺三宝院門跡満済らに進物するなど、一貫して鎌倉府と室町幕府との調停に努めている。一方で、室町幕府は上杉憲実を通じて鎌倉の動向を把握しようとしていた形跡が見られ、足利義教への対抗姿勢を続ける足利持氏と穏健派の上杉憲実は確執が生じるようになっていた。
1436年 室町幕府の分国である信濃国守護の小笠原政康と豪族の村上頼清が領地を巡って争い、足利持氏は鎌倉に支援を求めた村上頼清を助けて出兵しようとするが、上杉憲実は信濃国は鎌倉公方の管轄外であるとして諌め出兵を阻止し、合戦は小笠原政康が勝利する。
1437年 足利持氏の信濃再出兵が企画されると、出兵は上杉憲実誅伐のためであるとする噂が流れ、上杉憲実方にも武士が集まり緊迫状態が生じる。足利持氏は上杉憲実の元を訪れて会談するが、上杉憲実は相模国藤沢へ下った。
1437年
7月
嫡子を領国の上野国に逃して鎌倉へ入る。足利持氏は在職を望むものの上杉憲実は管領職を辞任する。
1437年
8月
一旦は復職するものの、武蔵国の文書への署名を依然として拒否しており、確執は解消されないままとなった。
1438年
6月
足利持氏の嫡子の賢王丸(足利義久)が元服すると、上杉憲実は慣例に従い将軍の一字拝領を賜るよう進言するが、足利持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせ、源義家に擬して「八幡太郎」の通称を称させて鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げる。この頃には足利持氏が上杉憲実を暗殺するという噂が立ち、上杉憲実は足利義久の元服祝儀にも欠席している。足利持氏に嫌疑をもたれた事に対し、不本意として自害を試みたが制止させられた。
1438年
8月
難を逃れるために鎌倉を出奔して領国の上野国平井城に下る。なお、京都の足利義教は上杉憲実は必ず自分を頼って京都に赴いて足利持氏打倒を訴えると考えていたらしく、既に駿河国の今川範忠に上杉憲実の庇護を命じていたため、この対応に困惑したと言う。足利持氏は上杉憲実討伐のために一色家に旗を与えて派兵し、自らも出陣した。室町幕府は関東での事態に対して、足利持氏討伐の兵を下すと共に、信濃国の小笠原政康に上杉憲実救援を命じている。
1438年
9月末
小笠原軍は上野国板鼻に入って北上する鎌倉軍を打ち破った。
1438年
10月
上杉憲実は武蔵国分倍河原に着陣し、先鋒の一色軍を破る。上杉憲実自身は旧主を攻めることをよしとせず、自らの軍の兵を進めることはなかったが、家宰の長尾忠政が代わりに兵を進めた。鎌倉軍は幕府軍に敗れ足利持氏は出家して永安寺(鎌倉)に入った。上杉憲実は幕府に足利持氏の助命と足利義久の鎌倉公方就任を再三再四嘆願するが、足利義教はこれを許さず上杉憲実に足利持氏を殺すよう命じ、上杉憲実が足利持氏・足利義久の父子の成敗を固辞している姿勢を、逆に足利持氏の翻意に荷担していると嫌疑がかけられた。上杉憲実はこのままでは足利義教に自らも攻め滅ぼされるか自害に追い込まれる事を覚悟して足利学校に五経疏本・孔子図など書籍や絵画を寄進して一旦は身辺整理を行う。
1439年 上杉憲実はやむなく永安寺を攻め、足利持氏と足利義久は自害した(永享の乱)。上杉憲実は後事を弟の上杉清方に託して、伊豆国清寺に退き出家し雲洞庵長棟高岩と称した。上杉清方はこの時に山内上杉家当主に就任したとみられ、関東管領も譲ろうとしたが室町幕府は認めなかった。
1440年 結城氏朝が足利持氏の遺児春王丸、安王丸を擁して挙兵する(結城合戦)。室町幕府は上杉憲実に政界復帰を命じ、上杉憲実はやむなく出陣した。その後、上杉憲実は再び隠遁した。
1441年 嘉吉の乱で足利義教が暗殺される。室町幕府は関東の秩序回復のため、上杉憲実に関東管領復帰を命じるが上杉憲実はこれを拒み、甥で越後国守護の上杉房朝に預けていた次男の上杉房顕を除く子供達も出家させる。上杉憲実は子供達に決して還俗せぬよう命じた。このため、室町幕府も長い間上杉憲実の「名代」とみなしていた上杉清方を関東管領として認めざるを得なくなった。
1444年 上杉清方が死亡すると再び山内上杉家の家督と関東管領の地位が空白になる。上杉憲実は先の方針から自分の子に後を継がせる事を許さず、山内上杉家の血を引く佐竹実定を後継者に指名して家宝・家伝の文書を譲り渡してしまった。しかし、家宰の長尾景仲はこれに反発して上杉憲実と対立した。
1447年 足利持氏の遺児の足利成氏が鎌倉公方になると、上杉憲実の長男の上杉憲忠が長尾景仲に擁立され関東管領に就任した。上杉憲実は上杉憲忠を不忠の子であるとして所領を全て没収して義絶した。上杉憲実は家臣の長尾家から伊豆国平井郷の所領を召し上げ、足利持氏の後室に料所として進上している。長尾家には土地を召し上げた代わりに代替地を与えている。
1450年 足利成氏は江ノ島合戦を引き起こす。室町幕府は上杉憲実に関東管領復帰を命じるが、隠遁して家中とも対立していた上杉憲実はこれに応じなかった。この後、上杉憲実は諸国遍歴の旅に出て、京都、九州にまで赴いた。
1452年 大内家を頼って長門国に留まった。
1454年
12月27日
足利成氏は上杉憲忠を謀殺して享徳の乱を起こした。
1466年
閏2月6日
長門国大寧寺において57歳で死亡。