一万人の戦国武将

細川持賢(ほそかわもちかた)

生年月日 1403年
没年月日 1468年10月7日
幼名
通称 弥九郎
別名 道賢
官位 右馬助
右馬頭
家系 細川京兆家
細川典厩家
細川満元
正室
側室

年表

1403年 細川京兆家8代目の細川満元の三男として生まれる。元服の時に4代目将軍の足利義持より偏諱を受けて細川持賢と名乗る。
1441年 嘉吉の乱で6代目将軍の足利義教が赤松満祐に暗殺されると、戦後処理で赤松家の領国のうち摂津国中島郡は室町幕府の直轄領となり、細川持賢は代官に任命され実質上の分郡守護となった。
1442年
8月
次兄の細川持之が死亡し、跡を継いだ甥の細川勝元が幼少のため後見人として幕政に参加、管領の畠山持国と対立した。
1442年 畠山持国が加賀国守護を富樫泰高から富樫教家の子の富樫成春に変えた。これに対し細川勝元・細川持賢は富樫泰高を支持した。
1443年 畠山持国が大和永享の乱で室町幕府方の成身院光宣・筒井順永の兄弟と交戦中に経覚についた古市胤仙・豊田頼英・小泉重弘に大和の支配権を委ねた。これに対し経覚派と敵対している成身院光宣・筒井順永を支援した。
1443年 出家して道賢と号した。
1446年 信濃国守護の小笠原家は当主の小笠原宗康と従兄の小笠原持長が対立、畠山持国は小笠原持長を支持し、細川勝元・細川持賢は小笠原宗康・小笠原光康の兄弟を支持していた。小笠原宗康が戦死して弟の小笠原光康が後を継いだ。信濃国・加賀国・大和国で畠山持国と細川勝元・細川持賢の代理戦争が頻発した。
1447年 京都で起こった徳政一揆の鎮圧に出陣、戦後に細川勝元の後見を取りやめた。
1467年 応仁の乱が始まると土佐国の軍勢を引き連れて東軍として参戦した。
1468年
10月7日
66歳で死亡。細川野洲家から細川政国を養子に迎え、家督は細川政国が継いだ。