一万人の戦国武将

小笠原光康(おがさわらみつやす)

生年月日 1415年
没年月日 1486年5月3日
または1461年11月
幼名
通称 伊奈六郎
別名
官位 従五位下 左衛門佐
遠江守
信濃守
家系 小笠原家
松尾小笠原家
小笠原政康
正室
側室

年表

1415年 信濃国守護で小笠原家の小笠原政康の三男として生まれる。
1442年
8月9日
父の死後、小笠原家惣領職をめぐって兄の小笠原宗康と従兄の小笠原持長との争いが起きた。小笠原家は府中の小笠原持長方と伊賀良の小笠原宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も2派に分裂して対立が続いた。
1446年
8月9日
小笠原光康は兄から後援を頼まれ、自身が討死した場合は惣領職を譲り渡すと取り決めをした。小笠原持長との戦いで兄が討ち死に(漆田原の戦い)したため、約束通り家督は小笠原光康に譲られ、室町幕府も信濃国守護職と小笠原家の惣領職を与えた。
1451年 畠山持国が管領になると小笠原光康に代わって小笠原持長が信濃国守護に任命された。
1453年 細川勝元が管領に再任されると小笠原光康が信濃国守護に再任された。
1455年
3月
室町幕府の管領の細川勝元の意向で鎌倉公方の足利成氏の討伐令が小笠原光康をはじめ、上杉家・駿河国守護の今川範忠・下野国守護の宇都宮等綱・下総国前守護の千葉胤直に下された。
1456年 古河公方の足利成氏に通じる小笠原清宗が国人衆と結託して出陣に反対したため、室町幕府将軍の足利義政が小笠原光康に対して小笠原清宗の討伐を命ずる御教書を発する。
1461年
11月
この年に死亡したとされるが、この頃に家督を長男の小笠原家長に譲ったのではないか。
1465年 小笠原光康と上杉房定に対して、足利成氏に通じる村上政清と高梨政高の討伐を命ずる御教書を発する。
1486年
5月3日
72歳で死亡。