一万人の戦国武将

多古城・志摩城の戦い

別名 多胡城・志摩城の戦い
多古城・嶋城の戦い
年月日 1455年4月~1455年8月15日
場所 下総国香取郡千田荘(多胡城・志摩城)
千葉県香取郡多古町
交戦勢力 千葉家(下総千葉家)
原・馬加連合軍
総大将 千葉胤宣(千葉胤直)
原胤房
馬加康胤
参加武将 千葉胤直
千葉胤宣
千葉胤賢
円城寺尚任
円城寺直時
原胤房
馬加康胤
結果 原・馬加連合軍の勝利

戦いの背景

1454年
12月27日
鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺して享徳の乱が勃発した。足利成氏側で千葉家の重臣の原胤房は千葉胤直・千葉胤宣の父子に足利成氏側になるよう説得したが、同じく千葉家の重臣の円城寺尚任の説得で上杉(室町幕府)側として足利成氏追討軍に参加した。
1455年
1月末頃
かねてから親上杉派である千葉胤直・千葉胤宣の父子と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた原胤房が亥鼻城を攻撃した(千葉合戦)。
1455年
3月20日
原胤房に攻められていた亥鼻城が落城し、千葉胤直・千葉胤賢・千葉胤宣・円城寺尚任は千田荘に逃れ、多古城・志摩城に籠城した。

戦いの経緯

1455年
4月
千葉胤直の叔父の馬加康胤が馬加から千田荘に進軍して原胤房と合流した。原胤房は馬加康胤の出陣を喜び、馬加康胤を多古城攻めの総大将とし、原胤房は千葉胤直らが籠もる志摩城を攻めた。
1455年
閏4月8日
千葉胤直らのもとに原胤房からたびたび降伏が勧められたが、千葉胤直はこれをはねつけて籠城を続け、京都でこの報告を受けた室町幕府将軍の足利義政は千葉胤直を賞して太刀一振を遣わす御内書を発給した。
1455年
5月8日
上杉房顕は千田荘で籠城を続ける千葉胤直らを救うため、常陸国信太荘の山内衆へ軍勢催促状をおくり、下総国境に陣を張って円城寺尚任と連絡を取り合い、その後に川を超えて下総国へ攻め入るように指示した。これに応えて大掾頼幹・大掾幹正の父子は志摩城に入城した。
1455年
8月12日
援軍に駆けつけた大掾頼幹・大掾幹正の父子と合流して馬加康胤・原胤房と戦ったが、大掾頼幹・大掾幹正・円城寺尚任・円城寺日向守・狩野朗典らは討死した。馬加康胤は、城を遠巻きにして兵糧を止める長期包囲の作戦をとっていため、籠城の兵は日に日に困窮し、逃亡するものが相次ぎ、20人余りになり、千葉胤宣は円城寺直時を馬加康胤のもとへ派遣して開城する旨を伝えた。千葉胤宣は城の近くの阿弥陀堂で自刃した。円城寺直時は千葉胤宣の介錯を務めた後、自らも自刃した。
1455年
8月15日
原胤房に攻められた千葉胤直・千葉胤賢は志摩城に籠城していたが陥落し、、千葉胤直は大野小五郎らと東禅寺に走り一族郎党とともに自刃した。千葉胤賢は子の千葉実胤・千葉自胤とともに脱出し、上総国武射郡小堤城に逃れた。