一万人の戦国武将

千葉胤宣(ちばたねのぶ)

生年月日 1444年12月1日
没年月日 1455年8月12日
幼名
通称 五郎
別名
官位
家系 下総千葉家
千葉胤直
正室
側室

年表

1444年
12月1日
千葉家の16代目の千葉胤直の長男として生まれる。
1454年
6月23日
千葉家の17代目で伯父の千葉胤将が病死したため、父の千葉胤直の後見のもと家督を相続。18代目当主。
1455年
1月末頃
かねてから親上杉派である千葉胤直と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた叔父の馬加康胤と重臣の原胤房の連合軍が亥鼻城を攻撃した(享徳の乱)。
1455年
3月20日
以降
馬加康胤・原胤房に攻められていた亥鼻城が落城し、千葉胤直・千葉胤賢・千葉胤宣・円城寺尚任は千田荘に逃れ、多古城・志摩城に籠城した。
1455年
8月
下総千葉家は援軍に駆けつけた大掾頼幹・大掾幹正の父子と合流して馬加康胤・原胤房と戦ったが、大掾頼幹・大掾幹正・円城寺尚任・円城寺直時・円城寺日向守・狩野朗典らは討死した。
1455年
8月12日
馬加康胤に攻められた千葉胤宣は多古城に籠城していたが、馬加康胤は、城を遠巻きにして兵糧を止める長期包囲の作戦をとった。籠城の兵は日に日に困窮し、逃亡するものが相次ぎ、20人余りになり陥落した。千葉胤宣は城の近くの阿弥陀堂で自刃した。12歳。