一万人の戦国武将

渋川義鏡(しぶかわよしかね)

生年月日
没年月日
幼名
通称
別名
官位 右兵衛佐
家系 渋川家
渋川義俊
正室 山名家の娘
側室

年表

不詳 九州探題・肥前守護の渋川義俊の長男として生まれる。
1428年 父の渋川義俊が隠居したが、九州探題は譲られなかった(幼少であったためではないかと思われる)。
1457年
6月23日
室町幕府将軍の足利義政は渋川義鏡を関東に下向させて関東探題として蕨城を拠点に兵を募ったが不足であったため、足利義政に将軍家の者(足利政知)の派遣を要請したと思われる。関東に下向したのは武蔵国蕨郷に分家が存在していたこと、渋川家が足利家一族でも家格が高い家柄であることが理由ではないかと思われる。
1458年
3月
足利政知が古河公方の足利成氏側の武将の岩松持国に帰服を求める御教書を送っており、渋川義鏡が副状を添えている。この頃から渋川義鏡は足利政知の執事となっていた。
1458年 室町幕府将軍の足利義政から正式に鎌倉公方として足利政知が関東に送られた。
1458年
9月
室町幕府は五十子陣へ諸大名に命じて足利成氏の征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏と甲斐将久は両者がお互いを警戒して動かず(長禄合戦)、結城直朝のいる奥羽では国人達が抗争を繰り返していたため、討伐軍は依然として兵力不足であった。
1459年 叔父の渋川俊詮が武蔵国浅草で病死したことで渋川一族の動員を認められた。
1460年
1月
今川範忠が駿河国に帰還したため討伐軍の編成は思う様に進まなかった。今川範忠の帰国は長禄合戦の影響で遠江国で戦乱が起こり、一族の今川範将が遠江国に侵攻したことが関わっているとされる。
1460年
8月
斯波家も遠江国へ鎮圧のために甲斐敏光と朝倉孝景が出兵し、関東にも出陣した。この機に乗じて足利政知は斯波軍を利用して鎌倉に入ろうとしたが、足利義政に制止された。
1460年 堀越公方の足利政知は尚も戦力不足であり、さらなる軍事動員が必要であると室町幕府に訴えている。
1461年
7月頃
上杉持朝の相模国守護活動が堀越公方の足利政知によって停止され、その支配権を接収した。
1461年
10月16日
足利義政の特命により、斯波家の家督は斯波義寛を廃嫡し、渋川義鏡の子の斯波義廉が相続することになった。足利政知の要望に応じ、執事である渋川義鏡が「斯波家当主の実父」という立場から足利一門最強の斯波軍を動員することができるように工作したとされる。
1461年 渋川義鏡とともに足利政知を支えていた上杉教朝が自害し、子の上杉政憲が跡を継いで関東に下向した。このとき扇谷上杉家家宰の太田資清も隠居した。
1462年 上杉持朝の謀反の噂が流れた。足利義政は足利政知に上杉持朝の保護を命じたが、三浦時高・大森氏頼・大森実頼の父子・千葉実胤ら扇谷上杉家の重臣が隠遁した。この出来事と上杉教朝の自殺、太田資清の隠居は連動しており、これらは堀越公方の足利政知が室町幕府に上杉持朝を讒言した為、重臣が代わりに責任を取った結果であり、黒幕は渋川義鏡だとされた。足利義政の御内書は渋川義鏡には出されなくなり失脚し、足利成氏討伐軍の編成は失敗に終わった。
1462年
以降
失脚した渋川義鏡の動向は明らかでないが、蕨郷へ隠居し、養子の渋川義堯が蕨城主になったとされる。