千葉胤直(ちばたねなお)
生年月日 | 1419年8月21日 |
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没年月日 | 1455年8月15日 |
幼名 | |
通称 | 千葉介 千葉大介 |
別名 | 常瑞 |
官位 | 従五位下 下総権介 |
家系 | 下総千葉家 |
父 | 千葉兼胤 |
母 | 上杉氏憲の娘 |
正室 | 上杉氏憲の娘 |
側室 |
年表
1419年 8月21日 |
千葉家の15代目の千葉兼胤の次男として生まれる。 |
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1430年 6月17日 |
父が死亡したため、家督を継いだ。16代目当主。上総国守護・下総国守護に任じられ、従五位下に叙せられた。こののち鎌倉府侍所所司となった。 |
1430年 12月 |
関白の二条持基から香取社に書状があり、香取社から造営の指示をうけた。 |
1431年 12月24日 |
真間山弘法寺別当・弁法印御房に対して、「真間弘法寺職地西屋敷、長門屋敷、上畠、山野等」を安堵する安堵状を発給している。 |
1432年 4月28日 |
足利持氏・上杉憲実・武田信長・千葉胤直ら9人が相模国大住郡の大山寺造営について、馬を奉納している。 |
1438年 8月 |
鎌倉公方の足利持氏が関東管領の上杉憲実を謀反人として諸大名に討伐を命じたが、これを聞いた千葉胤直は上杉持朝とともに御所に出向いて足利持氏を諌めた。しかし足利持氏は説得に耳を貸すことはなかった。千葉胤直は下総国に戻り、軍勢を集めて上杉憲実に通じた(永享の乱)。 |
1438年 11月 |
足利持氏が永安寺に幽閉されると、上杉持朝・大石憲儀・千葉胤直が守備にあたることとなった(永享の乱)。 |
1439年 2月10日 |
上杉憲実は永安寺を守っていた上杉持朝・千葉胤直に殺害を命じて、足利持氏と足利義久を自害させた(永享の乱)。 |
1440年 9月27日 |
結城合戦が始まると軍勢を率いて参陣し、結城城の南を固めた。 |
1441年 4月16日 |
結城合戦が終結すると千葉胤直は、相馬御厨の領主である伊勢外宮に対して祈祷させており、そのことに対して礼を述べる書状を送った。直後に出家して常瑞と号して兄の千葉胤将に家督を譲った。大御所的な地位にあって千葉家の実権を握っていたと思われる。 |
1447年 3月 |
室町幕府は関東地方の安定を図るため、鎌倉府の再興を願い出ていた越後国守護の上杉房朝や千葉胤直ら関東諸士、上杉家一門・家老、室町幕府管領の畠山持国の支持などの結果、足利持氏の子の足利成氏を立てることを許し、鎌倉府は再興された。 |
1454年 6月23日 |
兄の千葉胤将が死亡し、長男の千葉胤宣が家督を継いだが、幼年のため、千葉胤直が下総国守護の職務を代行した。 |
1455年 1月末頃 |
かねてから親上杉派であった千葉胤直・千葉胤賢の兄弟は足利成氏によって享徳の乱が勃発すると足利成氏討伐に参加したことから室町幕府将軍の足利義政から激賞された。千葉胤直と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた叔父の馬加康胤と重臣の原胤房の連合軍に亥鼻城を攻撃された。 |
1455年 3月 |
室町幕府は管領の細川勝元の意向で足利成氏の討伐令が上杉家をはじめ、周辺の守護である駿河国守護の今川範忠・信濃国守護の小笠原光康・下野国守護の宇都宮等綱・下総国前守護の千葉胤直に下された。後花園天皇から足利成氏追討の綸旨と御旗を得たために、足利成氏は朝敵となった。 |
1455年 3月20日 以降 |
馬加康胤・原胤房に攻められていた亥鼻城が落城し、千葉胤直・千葉胤賢・千葉胤宣・円城寺尚任は千田荘に逃れ、多古城・志摩城に籠城した。 |
1455年 8月 |
下総千葉家は援軍に駆けつけた大掾頼幹・大掾幹正の父子と合流して馬加康胤・原胤房と戦ったが、大掾頼幹・大掾幹正・円城寺尚任・円城寺直時・円城寺日向守・狩野朗典らは討死した。 |
1455年 8月12日 |
馬加康胤に攻められた千葉胤宣は多古城に籠城していたが、馬加康胤は、城を遠巻きにして兵糧を止める長期包囲の作戦をとった。籠城の兵は日に日に困窮し、逃亡するものが相次ぎ、20人余りになり陥落した。千葉胤宣は城の近くの阿弥陀堂で自刃した。 |
1455年 8月15日 |
原胤房に攻められた千葉胤直・千葉胤賢は志摩城に籠城していたが、千葉胤直は大野小五郎らと東禅寺に走り一族郎党とともに自刃した。千葉胤賢は子の千葉実胤・千葉自胤とともに脱出した。家督は馬加康胤に奪われ千葉宗家は滅亡した。37歳。 |