千葉自胤(ちばよりたね)
生年月日 | 1446年 |
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没年月日 | 1493年12月6日 |
幼名 | |
通称 | 次郎 |
別名 | |
官位 | |
家系 | 下総千葉家 武蔵千葉家 |
父 | 千葉胤賢 |
母 | |
正室 | |
側室 |
年表
1446年 | 下総千葉家の千葉胤賢の次男として生まれる。 |
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1454年 12月27日 |
鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺して享徳の乱が勃発すると下総千葉家は上杉家に与した。 |
1455年 1月末頃 |
かねてから親上杉派である伯父の千葉胤直と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた大叔父の馬加康胤と重臣の原胤房の連合軍が亥鼻城を攻撃した。 |
1455年 3月20日 以降 |
馬加康胤・原胤房に攻められていた亥鼻城が落城し、千葉胤直・千葉胤賢・千葉胤宣・円城寺尚任・千葉実胤・千葉自胤は千田荘に逃れ、多古城・志摩城に籠城した。 |
1455年 8月 |
下総千葉家は援軍に駆けつけた大掾頼幹・大掾幹正の父子と合流して馬加康胤・原胤房と戦ったが、大掾頼幹・大掾幹正・円城寺尚任・円城寺直時・円城寺日向守・狩野朗典らは討死した。 |
1455年 8月15日 |
原胤房に攻められた千葉胤直・千葉胤賢は志摩城に籠城していたが、千葉胤直は大野小五郎らと東禅寺に走り一族郎党とともに自刃した。千葉自胤は父の千葉胤賢と兄の千葉実胤とともに脱出した。 |
1455年 9月7日 |
父の千葉胤賢は小堤城で自刃したが、千葉自胤は兄の千葉実胤と八幡荘の市河城まで逃走した。 |
1456年 1月9日 |
室町幕府8代目将軍の足利義政が派遣した同族で奉公衆の東常縁の支援はあったが、足利成氏の派遣した簗田持助に敗れ市河城も陥落、千葉自胤らは武蔵国へ、東常縁は東庄の近い下総国匝瑳郡へと逃れた。 |
1456年 | 兄の千葉実胤は武蔵国石浜城、千葉自胤は武蔵国赤塚城の城主となる。 |
1456年 2月7日 |
体制を立て直した東常縁は、老尾神社で戦勝祈願をした後に馬加城を攻め落とした。 |
1456年 6月12日 |
東常縁は馬加康胤の子の馬加胤持を討ち取った。 |
1456年 11月1日 |
東常縁は上総国八幡の村田川にまで逃れた馬加康胤を討ち取った。 |
1456年 11月24日 |
原胤房を追放した。 |
1457年 4月 |
外戚である扇谷上杉家の家宰太田資長が江戸城を築城する等、古河公方側に圧力をかけ続けた。しかし、確たる所領を持たないため経済的に逼迫し、下総国への帰還も思うに任せない状態であった。 |
1462年 | 下総国への帰還はかなわず、兄の千葉実胤が堀越公方の足利政知の執事の渋川義鏡によって讒言されたことで失脚し、隠遁したため、家督を継いだ。石浜城主となり室町幕府から認められて千葉家当主となった。 |
1469年頃 | 下総国において分家の印東庄岩橋村の領主岩橋輔胤らが本佐倉城を築城するなど反抗を続けた。 |
1469年 4月 |
応仁の乱で東常縁が斎藤妙椿に美濃国の所領を横領されたため、子の東緑数を下総国に残して帰京し、軍事力が低下した。 |
1471年頃 | 岩橋輔胤の子の千葉孝胤が千葉家当主を自称し、室町幕府と対立していた足利成氏も千葉孝胤に頼らざるを得なかったためこれを認めた。 |
1478年 1月 |
山内上杉家・扇谷上杉家と足利成氏が和睦したが、長尾景春と組んだ千葉孝胤は和睦に反対した。 |
1478年 12月10日 |
足利成氏の合意もあり太田資長の支援を背景にして千葉孝胤追討に立ち上がり、境根原合戦に勝利した。千葉孝胤らは軍勢をまとめて退却し臼井城に籠城した。 |
1479年 7月15日 |
臼井城を落城させ、下総国・上総国の大半を制圧した。しかし、この20年の間に岩橋輔胤・千葉孝胤による千葉領支配体制は既に完成しており、同地に支持勢力を有さなかった千葉自胤は上杉家の内紛に巻き込まれていく中で撤退を余儀なくされ、結果的には千葉孝胤の子孫による下総千葉家継承が確定される事となった。 |
1493年 12月6日 |
48歳で死亡。家督は養子の千葉盛胤が継いだ。千葉自胤の子孫は武蔵国に定着、小規模な勢力しか持たない国人に転落していった(武蔵千葉家)。 |