一万人の戦国武将

筑波潤朝(つくばみつとも)

生年月日 1410年~1420年頃
没年月日 1460年~1470年頃
幼名
通称 太夫
別名
官位
家系 筑波家
筑波玄朝
正室
側室

年表

1410年~
1420年頃
筑波家の筑波玄朝の子として生まれる。
1440年
3月
結城合戦では結城家側として参戦し、長沼氏秀の守る城を攻撃した。
1441年
4月16日
結城合戦では父や叔父が討ち死にし、宍戸持里と常陸国泉城に逃れた。
1441年
6月24日
泉城に籠り幕府軍と戦うが、嘉吉の乱により足利義教が殺害され生き延びる。
1455年
3月3日
鎌倉公方の足利成氏に従い、那須資持・小田朝久らとともに小栗城の攻撃を開始した(享徳の乱)。
1455年
閏4月
足利成氏とともに小栗城を陥落させた。