一万人の戦国武将

太田資清(おおたすけきよ)

生年月日 1411年
没年月日 1488年8月3日
幼名
通称 源六郎
別名 大田資光
道真
官位 左衛門大夫
備中守
家系 太田家
大田資房
正室 長尾景仲の娘
側室

年表

1411年 扇谷上杉家の家宰で太田家4代目の大田資房の長男として生まれる。若年より文武に励んだ優れた武将で、関東の諸将は草木が風になびくように彼に従ったという。相模国守護代を務めた。
1439年 永享の乱で足利持氏の残党の一色家を討った。
1447年 上杉家の願いにより鎌倉公方再興が許され、足利持氏の遺児の足利成氏が鎌倉公方に迎えられ、山内上杉家当主の上杉憲忠が関東管領に就任した。上杉憲忠が若年だったために、山内上杉家の家宰で太田資清の義父にあたる長尾景仲がこれを補佐した。一方、扇谷上杉家も当主の上杉持朝が足利持氏を永安寺で攻め殺した張本人だったためか、隠居して家督を嫡男の上杉顕房に譲った。上杉顕房も若年だったために太田資清がこれを補佐した。両上杉家を支える長尾景仲と太田資清は「関東不双の案者(知恵者)」と呼ばれた。書状に道真とあるのでこの頃には出家している。
1450年 長尾景仲と太田資清は鎌倉の足利成氏の御所を不意に襲った。足利成氏は江の島へ逃れ、小山家、千葉家、宇都宮家らの味方を得て反撃し、由比ヶ浜で合戦になった。仲介が入って両者は和睦したが、遺恨が晴れなかった(江の島合戦)。
1454年
12月27日
足利成氏が上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱が勃発した。長尾景仲は上杉憲忠の弟上杉房顕を山内家当主に迎えた。
1455年 上杉方は反撃に出て武蔵国分倍河原で足利成氏と戦うが大敗を喫し、上杉顕房が戦死してしまう。太田資清は上杉顕房の子の上杉政真を家督に立てるが、幼児にすぎず、先代の上杉持朝が家督に復帰することになった。その後、足利成氏は幕府軍の攻撃を受けて鎌倉から逃れ、下総古河城に拠って古河公方と呼ばれるようになる。
1456年 太田資清は長男の太田資長に家督を譲った。しかし、隠居はせず実権を持ち続けた。1461年の説あり。
1457年 古河公方の足利成氏との戦いに備え、河越城・岩槻城・江戸城を築いた。太田資長は江戸城を居城とし、太田資清は扇谷上杉家の本拠となった河越城を守り、上杉持朝を補佐した。
1458年 8代目将軍の足利義政の異母兄の足利政知が関東に下向、伊豆国に留まり、堀越公方と称された。しかし、足利政知は上杉持朝と対立した。
1461年 上杉持朝の相模守護の活動が停止され、太田資清は隠居した。
1462年 上杉持朝の謀反の噂が流れ、足利政知の執事の渋川義鏡の讒言によって扇谷上杉家の重臣の三浦時高・大森氏頼・千葉実胤らが隠遁した。後に室町幕府の朝廷で両者は和解、渋川義鏡は失脚した。
1467年 太田資清が長年仕えた上杉持朝が河越で死亡した。家督は孫の上杉政真が継ぎ、太田資清は上杉政真に従って武蔵国五十子陣で古河公方と対陣した。太田資長は江戸城にあって武蔵国、相模国を固めた。
1469年 河越城で著名な歌人の宗祇と心敬を招いて連歌会を催した。これは「河越千句」として有名である。太田資清の連歌は宗祇が編纂した『新撰菟玖波集』に収められている。
1473年 古河公方の軍勢が五十子陣に攻めかかり、上杉政真が討ち死にしてしまう。太田資長ら老臣達の評定によって上杉政真の叔父の上杉定正が家督に迎えられた。
1477年 山内上杉家の重臣の長尾景春が古河公方と結んで反乱を起こして、五十子陣を急襲した。上杉軍は大敗を喫し、五十子を守っていた山内上杉家当主の上杉顕定、上杉定正、太田資清は上野国へ敗走する(長尾景春の乱)。関東の多くの国人が長尾景春に呼応して、両上杉家は危機に陥った。これを救ったのが太田資清の子の太田資長で、石神井城の豊島家をはじめ各地の長尾景春方を次々と打ち破る。太田資清は上野国阿内城にあって上杉顕定、上杉定正を補佐した。太田資長と上杉顕定、上杉定正は合流することに成功して、用土原の戦いで大勝して長尾景春を封じ込めたが、古河公方が本格的に参戦して乱は長期化の様相を見せた。
1478年 太田資長と太田資清は上杉顕定の反対を押し切って、上杉定正を河越城に帰還させ、太田資清も河越城に入った。長尾景春が河越城へ攻め寄せるが上杉定正と太田資清はこれを撃退している。
1480年 長年の戦に飽いた古河公方は和議を望むが、長尾景春はなおも戦おうとした。太田資長は長尾景春方を次々と打ち破り、ほぼ乱の平定に成功した。
1482年 古河公方と両上杉家との間で和議が成立して享徳の乱は終わった。この戦いで扇谷上杉家の勢力は大いに高まり、殊に乱を平定した太田資長の声望は主君上杉顕定、上杉定正を凌がんばかりとなった。これは上杉顕定、上杉定正にとって危険なことであった。家中には太田資長が謀反を企てていると中傷する者があり、上杉定正も疑うようになるが、太田資清・太田資長父子は何ら弁明しなかった。この頃には高齢となった太田資清は隠居して自得軒に閑居するようになった。
1486年
6月
太田資長は詩人の万里集九を伴って太田資清の隠居所を訪ねて詩会を楽しんだ。
1486年
7月18日
上杉定正の居館である糟屋館に招かれた太田資長はにわかに暗殺された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。
1488年
8月3日
越生で死亡。78歳。