一万人の戦国武将

武田信長(たけだのぶなが)

生年月日 1389年
没年月日 1477年
幼名
通称 悪八郎
豊三
別名
官位 右馬助
家系 甲斐武田家
上総武田家
武田信満
小山田家の娘
正室
側室

年表

1389年 甲斐国守護で甲斐武田家の13代目の武田信満の次男として生まれる。
1416年 上杉禅秀の乱で父とともに上杉方に加担した。
1417年
2月6日
父が上杉禅秀の乱の討伐軍によって都留郡木賊山で自害すると、新守護に叔父の武田信元(穴山満春)が任じられるが、甲斐国人の逸見有直が甲斐国守護の着任を志向し、新守護の入国を妨害していた。武田信長は都留郡に勢力を持つ加藤家と強調し逸見家に対抗した。室町幕府の意向を受け、武田信元支援のため信濃国守護の小笠原家が甲斐守護代に任じられた跡部家を派遣しており、室町幕府の承認を得ていない武田信長は跡部家とも対決傾向にあった。
1420年 この頃、武田信元が死亡すると、武田信長の長男の武田伊豆千代丸が跡を継いだ。しかしこれは武田信元の独断であった。
1421年
9月
鎌倉府から吉見伊予守が派遣され、武田信長の「反逆」を問い詰め、武田信長の無心を確認すると鎌倉へ帰還した。
1423年
6月5日
兄の武田信重が甲斐国守護に任命され、武田信重の入国に際して逸見家・穴山家ら国人勢力はこれを妨害した。武田信長も妨害した。
1425年
8月
鎌倉府から上杉房前が派遣されたが、武田信長は出府を拒否した。
1426年 武田信長の奮戦によって逸見家は敗れ、討ち死にしたり、自害するものが多く、残党が鎌倉府に訴えた。鎌倉公方の足利持氏は一色時家率いる1000人の軍勢を甲斐国へ派遣したが、武田信長はこれに勝利する。
1426年6月 足利持氏自らが武田信長の討伐に乗り出した。
1426年
7月15日
足利持氏が鶴川・小西と軍を進めて大月に本陣を張った。武田信長も猿橋まで向かい防戦に努めた。
1426年
8月25日
足利持氏方に加担した武蔵国の白旗一揆が甲斐国に乱入したため、足利持氏の軍門に降り、鎌倉府に出仕する身となった。
1432年
4月28日
「相模大山寺造営奉加帳写」の9人のうち、武田信長は鎌倉公方の足利持氏、関東管領の上杉憲実の次に署名しており、上位の序列であった。
1433年
3月1日
甲斐国守護代の跡部家を排し武田伊豆千代丸を救助するために、鎌倉を出奔して足利持氏の怒りを買った。室町幕府と鎌倉府との間で、守護任命をめぐって交渉が行われたが、足利持氏は降伏した武田信長を鎌倉へ出仕させる条件で、室町幕府が強く推す武田信重の就任を認めた。
1433年
4月29日
荒河において武田信長・武田伊豆千代丸に与した日一揆と跡部家に与した輪宝一揆が戦うが、武田伊豆千代丸は討ち死にし、武田信長は駿河国に逃れた。室町幕府は足利持氏を牽制するために武田信長を保護し、足利持氏が鎌倉府分国外の駿河国に出兵する計画を非難した。
1434年 武田信長は再び甲斐国に入り跡部家と戦ったが挽回できず、駿河国から京へ逃れ、6代目将軍の足利義教に仕えた。跡部家が武田信重の帰国を容認した背景には、武田信長との抗争があった。
1441年
4月16日
結城合戦で室町幕府方として武功を挙げ、祖父の武田信春の旧領の相模国曽比・千津島を与えられた。
1449年
9月
鎌倉公方の足利成氏に出仕して近習に重用され、以後甲斐国の政情には関与せず、一貫して足利成氏に忠勤した。
1450年
5月
一色直清とともに江の島合戦で相模国七沢に蟄居していた関東管領の上杉憲忠を帰参させる使者となった。
1454年
12月27日
足利成氏が、上杉憲忠を御所に出仕させ、御所に入った上杉憲忠を結城成朝・里見義実・武田信長・印東式部少輔が300人の手勢を連れて取り囲んだ。結城成朝の家臣の多賀谷氏家・多賀谷朝経の兄弟によって上杉憲忠は謀殺された(享徳の乱)。
1455年
1月6日
相模国島河原で鎌倉の留守を守っていた武田信長は上杉持朝を迎撃した。
1455年
1月21日~24日
分倍河原の戦いに参陣し、その後各地を転戦した。
1455年
12月
武田信長は長尾景仲の籠もる武蔵国騎西城を攻め落とした(騎西郡の合戦)。
1456年
9月
古河公方の足利成氏の命により、上総国に侵入し、真里谷城・庁南城を築いて拠点とした。上総武田家の初代当主となる。
1456年 上総国の周淮郡・天羽郡・望陀郡・畔蒜郡・市原郡・海上郡・夷隅郡・埴生郡・長柄郡の9郡をたちまち押領した。のち久留里城・佐是城・峰上城を築き、久留里城には四男の武田信房、佐是城には孫の武田国信、峰上城には三男の武田信武が入った。
1463年 隠居して次男の武田信高が家督を継いだ。
1477年 89歳で死亡。