一万人の戦国武将

今川範忠(いまがわのりただ)

生年月日 1408年
没年月日 1461年5月26日
幼名
通称 彦五郎
別名
官位 従四位下 民部大輔
上総介
家系 駿河今川家
今川範政
上杉氏定の娘
正室
側室

年表

1408年 駿河国守護で駿河今川家4代目の今川範政の次男として生まれる。兄の今川範豊の死によって嫡男となる。
1433年 父が今川範忠を廃嫡して異母弟の小鹿範頼に譲ろうとしたため、兄弟間で家督争いが起こった。
1433年
5月27日
父が死亡すると鎌倉公方の足利持氏との対抗上から、幼年の小鹿範頼よりも成人した今川範忠が継いだほうがよいと考えた6代目将軍の足利義教の裁定により在洛中の今川範忠が駿河国守護と駿河今川家の5代目を継いだ。このとき、狩野家や富士家など一部の反対派が足利持氏の支援を受けて蜂起したが、足利義教の強い支持を背景に三河国・遠江国守護の斯波家の部隊などが派遣され、これを鎮圧している。これらの経緯から室町幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務める。
1439年 永享の乱では室町幕府の要請で出陣し、武功を上げる。
1441年 結城合戦でも室町幕府の要請で出陣し、武功を上げる。この功により足利義教より今川姓を今川範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」の恩賞が与えられ、以後今川範忠の直系子孫を今川家の宗家とすることが保障された。
1455年
6月16日
8代目室町幕府将軍の足利義政から鎌倉公方の足利成氏討伐を任じられて、後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉家討伐に向かって留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、足利成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)。
1460年
1月
駿河国に帰国した。
1461年
3月20日
長男の今川義忠に家督を譲った。
1461年
5月26日
54歳で死亡。