上杉房定(うえすぎふささだ)
生年月日 | 1431年11月14日 |
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没年月日 | 1494年10月17日 |
幼名 | |
通称 | |
別名 | 常泰 |
官位 | 左馬助 民部大輔 従四位下 相模守 |
家系 | 上条上杉家 越後上杉家 |
父 | 上杉清方 |
養父 | 上杉房朝 |
母 | |
正室 | 青蔭庵月山妙皓禅定尼 |
側室 | 芳賀家の娘 |
年表
1431年 11月14日 |
上条上杉家の初代の上杉清方の次男として生まれる。 |
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1449年 2月 |
従兄で越後国守護の上杉房朝が急死すると上杉房朝の側近である長尾頼景らに後継として擁立された。 |
1450年 4月 |
江の島合戦が起こり、鎌倉公方の足利成氏と上杉家との対立が表面化した。 |
1450年 11月12日 |
上杉房定は京都から越後国へ下向し長尾頼景の伯父で越後国守護代の長尾邦景・長尾実景の父子を攻め、長尾邦景は自害し、長尾実景は信濃国へ逃れた。府内での政権掌握に成功した上杉房定は京都に戻ることなく自ら越後国の支配に乗り出した。 |
1451年 3月 |
下郡の国人に対する示威行動のように弥彦神社へ参拝した。 |
1451年 5月 |
信濃国で復帰運動を続ける長尾実景への合力を禁じる御教書が越後国の国人へ発給された。 |
1454年 12月27日 |
足利成氏が上杉房定の従兄で関東管領の上杉憲忠を謀殺した事をきっかけに享徳の乱が勃発する。 |
1455年 4月 |
室町幕府は上杉房定にも足利成氏の追討を命じ、室町幕府から征旗を下された上杉房定は、上野国で上杉憲忠の跡を継いだ上杉房顕勢と合流した。 |
1455年 6月5日 |
上杉勢は上野国三宮原で足利成氏と戦い打ち勝った。 |
1455年 7月25日 |
上杉勢は下野国穂積原で足利成氏と戦い打ち勝ち下野国足利まで進出した。 |
1455年 12月 |
足利成氏が、下野国天命・只木山の陣を崩壊させ、上杉勢は撤退した。 |
1457年 | 上杉家は五十子陣を築城し、足利成氏に対抗した。 |
1459年 10月14日 |
上杉家は、太田庄の戦いにおいて大敗を喫したが、足利成氏が撤退したため五十子陣は上杉軍に確保された。以後、両陣営は付近の五十子陣を挟んで長期にわたって睨み合った。 |
1463年 12月 |
上杉房定は上杉右馬頭を大将として足利成氏方であった信濃国の高梨政高を攻めた。この侵攻で上杉右馬頭は討死し、敗北した。 |
1465年 6月 |
8代目将軍の足利義政は信濃国守護の小笠原光康に対し上杉房定と協力して村上家・高梨家を退治するよう命じた。 |
1466年 2月12日 |
上杉房顕が子供を遺さずに陣没した。長尾景信は上杉房定の子を後継者に吹挙したものの、山内上杉家中にこの事に反対する勢力との深刻な対立があり、上杉房定はなかなか承諾しなかった。結局は8代目将軍の足利義政の強硬な後押しで次男の上杉顕定を養子に出すことを承諾し、関東管領に就任させている。岩松家純の説得もあったという。上杉顕定を養子に入れたことで、上杉房定は上杉諸家の長老となった。関東への影響力も増し、実質的に越後上杉家は享徳の乱における上杉方の惣大将となった。 |
1469年 9月1日 |
越後国守護代として留守を守り続けた長尾頼景が没し、守護代は子の長尾重景が継いだが、越後国の国内に不安を覚えた。 |
1471年 | この頃までに長男の上杉定昌を上野国白井城に留めて自身は越後国に帰還した。 |
1471年 4月 |
上杉方は足利成氏方へ攻勢をかけており、足利義政は何度も上杉房定へ好機を逃さず関東へ出陣するよう要請したが、上杉房定は信濃国や越後国内の政情不安を理由になかなか応じなかった。 |
1471年 5月 |
越後国人の安田房朝が反乱を起こし、上杉房定の命を受けた甥の安田重広に討たせた。 |
1471年 6月 |
越前国の朝倉孝景への合力を求められている。 |
1478年 1月 |
危機感を抱いた上杉家は、足利成氏と和睦を成立させた。 |
1479年 | 長年難航していた室町幕府との和睦交渉も、上杉房定が室町幕府管領の細川政元との仲介に立つことで進展した。 |
1482年 11月27日 |
室町幕府と足利成氏との和睦が成立し(都鄙合体)、享徳の乱は終結した。上杉房定はこの和睦交渉で決定的な役割を果たした。 |
1483年~ 1487年 |
この間に行われた検地では倍以上の増分を検出するなど国内領主への統制を強めた。 |
1486年 3月 |
享徳の乱や都鄙合体の交渉の過程で京都との関係は深まり、将軍家や在京公家との交流も盛んになった。上杉房定は一国の守護としては破格の待遇である従四位下相模守に任じられたが、この官位を得るために近衛政家と接触して吉田神社の造営費を送り、足利義政や関係者にも莫大な金品を贈った。室町幕府を通して李氏朝鮮から高麗版大蔵経を輸入し、越後国安国寺へ納めることにも成功した。 |
1486年 7月26日 |
扇谷上杉家の上杉定正が越後・山内上杉家主導で行われた都鄙合体に不満を抱いていたことや、上杉顕定が長尾景春の乱の過程で大きく勢力を伸ばした扇谷上杉家に危機感を抱いたことで、山内・扇谷上杉家の対立が生じ、上杉定正が家宰の太田資長を暗殺したことを契機に対立はより深まった。 |
1487年 | 山内・扇谷上杉家の間で長享の乱が勃発した。上杉房定は白井城に配した上杉定昌を通じて上杉顕定を支援した。 |
1487年 | 出家して常泰と号した。 |
1488年 3月24日 |
上杉定昌が白井城で自害してしまった。これを受けて上杉房定は自ら関東に出陣した。 |
1488年 6月 |
須賀谷原の戦いで扇谷上杉家と戦い敗北した。 |
1488年 11月 |
高見原の戦いで扇谷上杉家と戦い敗北した。 |
1489年 | 揚北衆の本庄房長が反乱を起こしたが、守護代の長尾能景や伊達家の合力によって鎮圧された。 |
1491年 | 管領の細川政元と歌人の冷泉為広が越後国を訪問した。表向きは奥州に修験道の修行に行くという細川政元を上杉房定が説得して京都に帰らせた事になっているが、10代目将軍の足利義材の廃立計画について上杉房定・上杉顕定の父子の協力を求めに来たのではないかと思われる。 |
1493年 | 本庄房長が再び反乱を起こしたが、鎮圧した。 |
1494年 10月17日 |
64歳で死亡。家督は上杉房能が継いだ。 |