一万人の戦国武将

細川勝元(ほそかわかつもと)

生年月日 1430年
没年月日 1473年5月11日
幼名 聡明丸
通称 六郎
別名
官位 従五位下 右京大夫
従四位下 武蔵守
家系 細川京兆家
細川持之
京極高光の娘
正室 春林寺殿(山名持豊の養女・山名煕貴の娘
側室

年表

1430年 室町幕府管領で細川京兆家10代目の細川持之と京極高光の娘の長男として生まれる。幼名は聡明丸。
1442年
8月
父の細川持之が死亡し、家督を継いだ。この時に7代目将軍の足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて摂津国・丹波国・讃岐国・土佐国の守護となった。従五位下右京大夫に叙任。
1442年 畠山持国が加賀国守護を富樫泰高から富樫教家の子の富樫成春に変えた。これに対し富樫泰高を支持した。
1443年 畠山持国が大和永享の乱で室町幕府方の成身院光宣・筒井順永の兄弟と交戦中に経覚についた古市胤仙・豊田頼英・小泉重弘に大和の支配権を委ねた。これに対し経覚派と敵対している成身院光宣・筒井順永を支援した。
1445年
3月24日
室町幕府管領に就任する。近江国で反乱を起こした六角時綱を六角時綱の弟の六角久頼と京極持清に鎮圧させた。
1446年 信濃国守護の小笠原家は当主の小笠原宗康と従兄の小笠原持長が対立、畠山持国は小笠原持長を支持し、細川勝元は小笠原宗康・小笠原光康の兄弟を支持していた。小笠原宗康が戦死して弟の小笠原光康が後を継いだ。信濃国・加賀国・大和国で畠山持国と細川勝元の代理戦争が頻発した。
1447年 山名持豊の養女を正室に迎える。細川京兆家は一族全てで9ヶ国の守護であったのに対し、山名家は赤松家を嘉吉の乱で滅ぼした功績から旧赤松領を併せて8ヶ国の守護になっていた。このため、細川勝元は山名持豊と争うことは得策ではないと考え、政敵畠山持国に対抗する意味からも山名持豊と手を組む必要があった。
1449年
4月14日
従四位下に昇叙。武蔵守を兼任する。
1449年
9月5日
室町幕府管領を辞任する。
1450年 主君である和泉国守護の細川常有と対立して畠山持国と古市胤仙を頼った守護代の宇高有光が殺害される事件が起こったが、その件にも細川勝元の関与の可能性がある。
1451年 兵庫津に入港していた琉球商船のもとへ細川勝元が人を送り、商物を選って取得しながら代金の支払いをせず、琉球商人は室町幕府に訴え、足利義政は三人の奉行を送って究明させたが、細川勝元は押し取った物を返さないという事件を起こした。
1452年
12月23日
2度目の室町幕府管領に就任する。畠山持国が鎌倉公方の足利成氏との協調によって関東地方の安定を図ろうとしたのに対し、細川勝元は関東管領の上杉家を支援して、鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡した。関東管領を通じて、再び幕府が関東を直接統治する意思を示したものである。
1453年
5月
伊予国守護職を河野教通から河野通春に改替するが、実は細川勝元が河野教通を支持する足利義政に内緒で御教書・奉書などを作成したもので、その事実が発覚して足利義政に責められた細川勝元が引責辞任を表明しているが足利義政の説得で最終的に留任した。
1454年 畠山家で家督をめぐる内紛が起こった時には、畠山持国を失脚させるため、舅にあたる山名持豊と共に畠山持国の甥の畠山弥三郎を支援して畠山持国の推す実子の畠山義就を追放に追い込んだ。しかし8代目将軍の足利義政が嘉吉の乱で没落した赤松家の再興を支援しようとすると、赤松家の旧領を守護国に持つ山名持豊は赤松家の再興に強硬に反対した。このため、山名持豊は足利義政から追討を受けそうになるが、この時は細川勝元が弁護したため、山名持豊は追討を免れた。山名持豊が赤松則尚討伐のため但馬国へ下向した直後に畠山義就が上洛、畠山弥三郎を追放した。
1455年
3月26日
畠山義就が畠山持国の死で足利義政から当主に認められたため、両者に対抗して畠山家の引き抜きを図った足利義政の謀略とされる。
1455年 細川勝元は伊予国守護となった。その後伊予国守護職は河野通春に戻されたが、河野通春を傀儡として伊予国支配を目指した細川勝元の策は河野通春に拒絶されるところとなり、分家の阿波国守護の細川成之と河野通春が戦ったため、細川勝元と河野通春も対立していった。
1459年 足利義政の側近となった畠山義就だったが、無断で大和国へ軍事介入したことから足利義政の信頼を失い、細川勝元は畠山弥三郎と反義就派の大和国人への支援を続け、畠山弥三郎と成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信の赦免を取り付けた。この後、畠山弥三郎は死亡したが、弟の畠山政長を支援した。
1460年 畠山義就から畠山政長に家督が交替した。
1462年 山名持豊の次男の山名是豊を備後国・安芸国守護に任命し、畠山義就討伐に参戦させる。
1463年 畠山義就が嶽山城の戦いで吉野へ没落した。
1464年
11月13日
室町幕府管領を退任し、畠山政長に交替した。
1465年 山名家の勢力が細川勝元の想像以上に急速に拡大したため、細川勝元は山名持豊の勢力拡大を危険視するようになり、斯波家の家督争い(武衛騒動)でも姻戚関係から斯波義廉を支持する山名持豊に対し、細川勝元は斯波義廉と対立する斯波義敏を支持した。山名持豊がかねてから反対していた赤松家の再興問題に関しても細川勝元は積極的に支援し、ついには赤松政則を加賀半国の守護と成し、赤松家を再興させた。山名是豊を山城国守護に任命した。
1466年 細川勝元は勘合貿易の問題から大内教弘・大内政弘の父子、河野通春らと敵対していたが、山名持豊はこれを支援するなどしたことから、細川と山名の対立構造が生じ始めた。このため、細川勝元は庶流の上野家出身の細川賢氏を伊予国守護職に任じて河野通春を討伐させようとした。はじめ継嗣がいなかった細川勝元は、山名持豊の末子の山名豊久を養子にしていたが、実子の細川政元の誕生後、山名豊久を廃嫡して仏門に入れるなど関係の悪化は明白となった(山名の血を引く政元を遠ざけ、分家の野州家から細川勝之を猶子に迎えたとも)。
1466年
9月6日
足利義政と正室の日野富子に息子の足利義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まる。足利義政の側近の伊勢貞親と季瓊真蘂は足利義政が当初後継者に指名していた弟の足利義視の廃嫡と足利義尚の将軍後継を足利義政に提言した。しかし足利義視を支持していた細川勝元はこれに反対、山名持豊も伊勢貞親が幕府内において権勢を強めていたことを苦々しく思っていたことから、この時は細川勝元に賛同し共に足利義政に対して伊勢貞親と季瓊真蘂の追放を訴え、これを強硬に実現させた(文正の政変)。斯波義敏・赤松政則も失脚したが、後に復権している。
1466年
12月
足利将軍家内部で実力者がいなくなると、山名持豊は、追放されていた畠山義就を上洛させ、足利義政に仲介して赦免の許しを出させた。
1467年
1月
足利義政に強請して細川勝元が支援する畠山政長の管領職を取り上げて出仕停止処分に処し、代わりに山名持豊が支援する斯波義廉を管領に任命させたのである。ここに至って、細川勝元と山名持豊の武力衝突は避けられないものとなった。
1467年
1月18・19日
応仁の乱における最初の衝突は、畠山義就と畠山政長が争い、上御霊神社で衝突したことから始まった(御霊合戦)。これに対して山名持豊は後花園上皇・後土御門天皇を確保して畠山義就を支援したのに対し、細川勝元は足利義政の命令で畠山家の争いに関与することを禁じられていたため、御霊合戦では静観していた。このため、畠山政長は敗れた。
1467年
5月25日
天皇を擁した山名持豊に対して、細川勝元は室町幕府を占領して将軍を擁立した。
1467年
5月26・27日
上京の戦いで山名持豊と戦う。この後、細川勝元は東軍、山名持豊は西軍と区別され、細川勝元は将軍の足利義政から山名持豊追討令を受領したものの、戦況は互角であった。また、赤松政則を支援して山名領へ侵攻させたりした。そして一時は山名持豊に奪われていた上皇・天皇を確保するなど、次第に戦況は東軍有利に進むが、決定打は出せずにいた。
1468年
7月10日
3度目の室町幕府管領に就任する。
1468年
閏10月
足利義政が伊勢貞親を復職させると、細川勝元は足利義尚を、山名持豊が足利義視を支持する立場に変わるなど戦況も変わり、段々京都の戦闘が行われなくなる一方で地方に戦乱が波及、両軍はそれぞれの有力武将の寝返り工作へと戦略を変化させ、足利義視が西軍の総大将に祭り上げられ幕府がもう1つ出来上がるまでになった。
1471年 西軍の部将の朝倉孝景を越前国守護に任じて寝返らせた。
1472年 山名持豊に和平交渉を試みるが決裂する。
1473年
3月
宿敵である山名持豊が死去して優位に立った。
1473年
5月11日
44歳で死亡。死因は病死と言われているが、山名派による暗殺説あり。死後、細川政元が細川政国の後見の下で家督を継いだ。
人物 禅宗を信仰し、龍安寺や竜興寺を建立し、鯉料理などにも精通していただけでなく、自ら医術を研究して医書である「霊蘭集」を著し、さらに和歌・絵画にも優れた才能を持つ文化人であった。応仁の乱で勝元の下で活躍した4人の重臣、香川景明(元明)・香西元資・奈良元安・安富盛長の4人を細川四天王と呼ぶことがある。細川勝元は淀川の鯉を好んでいて、その産地を当てたことが「塵塚物語」に述べられている。