一万人の戦国武将

多賀谷朝経(たがやともつね)

生年月日 1408年以降
没年月日 1484年
幼名
通称
別名 金子祥賀
多賀谷高経
官位
家系 多賀谷家
多賀谷光義
正室
側室

年表

1408年以降 多賀谷家9代目の多賀谷光義の次男として生まれる。
1454年
12月27日
足利成氏の命により関東管領の上杉憲忠を急襲し、多賀谷氏家・多賀谷朝経の兄弟は上杉憲忠の首を討ち取った(享徳の乱)。
1455年
6月16日
足利成氏が室町幕府から追討を受けて鎌倉を追われた時、主君の結城成朝とともにこれを庇護している。この時の戦功により結城成朝の1字を与えられて「朝経」と改名している。
1462年
12月29日
結城成朝が室町幕府と内通するようになり、上杉憲忠の仇討ちを願う上杉家一族に引き渡されることを恐れた多賀谷朝経は結城成朝を暗殺する。多賀谷朝経は下総結城家支流の山川家から山川景貞の子の山川基景を擁立しようとしたが、急死したために下総結城家の家督は結城長朝の子の結城氏広が跡を継いだ。
1465年
6月19日
兄の多賀谷氏家が死亡すると下妻城主となる。この頃、施無畏山宝樹院小山寺の三重塔を建立する。
1484年 死亡。