一万人の戦国武将

市河城の戦い

別名 市川城の戦い
年月日 1456年1月初め~9日
場所 下総国葛飾郡八幡荘真間
千葉県市川市真間4-9-1(弘法寺)
交戦勢力 千葉家
古河公方家
総大将 千葉実胤
簗田出羽守
参加武将 千葉実胤
千葉自胤
東常縁
簗田出羽守
南図書助
結果 古河公方家の勝利

戦いの背景

1454年
12月27日
鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺して享徳の乱が勃発した。足利成氏側で千葉家の重臣の原胤房は千葉胤直・千葉胤宣の父子に足利成氏側になるよう説得したが、同じく千葉家の重臣の円城寺尚任の説得で上杉(室町幕府)側として足利成氏追討軍に参加した。
1455年
3月20日
千葉合戦で亥鼻城が落城し、千葉家は多古城・志摩城に籠城した。
1455年
8月15日
多古城・志摩城の戦いで敗れた千葉胤賢は子の千葉実胤・千葉自胤とともに脱出し、上総国武射郡小堤城に逃れた。
1455年
9月7日
千葉胤賢は小堤城で自刃したが、千葉実胤・千葉自胤は八幡荘の市河城まで逃走した。
1455年
10月頃
千葉実胤(千葉宗家)と原胤房・馬加康胤が対立していることを聞いた室町幕府将軍の足利義政が千葉家の同族で奉公衆の東常縁に鎮圧を命じた。副将として同じく奉公衆の浜春利を同行して下総に下向した。下総国香取郡東庄の東大社へ参詣して戦勝を祈願し、「静かなる 世にまた立やかへならむ 神と君との恵み尽せす」と詠んだ。献歌を終えた東常縁は、下総国守護代の国分憲胤・大須賀憲康らをはじめとする千葉一族と合力して、原胤房を攻めた。
1455年
11月13日
東常縁は馬加城と小弓城を攻め落としたが、東常縁方の原胤氏・原胤致が討ち死にした。
1455年
11月24日
東常縁は原胤房と馬加で合戦となり、打ち破った。戦い敗れた原胤房は千葉へと逃れ去った。その後、浜春利を東金城の守りにつかせ、東常縁は東庄へと移った。

戦いの経緯

1456年
1月初め
足利成氏は市河城に立て籠もっていた千葉実胤・千葉自胤を追討するため簗田出羽守・南図書助らを市河城に派遣した。これにより古河公方側が有利となり、行方をくらませていた原胤房・馬加康胤も簗田勢に属して市河城に攻め寄せた。このとき、東常縁も救援のため市河城に入っており、寄手の大将から降伏勧告があったが、「籠城しける時よせての大将より降参せよといひけるによみてつかはしける 命やはうきなにかへんよの中にひとりとヽまる習あれとも」と詠んで遣わし、降伏を拒んだ。
1456年
1月9日
市河城が陥落し、千葉実胤・千葉自胤は武蔵国へ、東常縁は東庄の近い下総国匝瑳郡へと逃れた。