分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)
別名 | |
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年月日 | 1455年1月21~24日 |
場所 | 武蔵国多摩川河畔の分倍河原 東京都府中市分梅町 |
交戦勢力 | 鎌倉公方足利家 |
上杉家(関東管領) | |
総大将 | 足利成氏 |
上杉顕房(上杉房顕) | |
参加武将 | 足利成氏 結城成朝 |
上杉顕房 上杉憲秋 上杉藤朝 大石房重 |
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結果 | 鎌倉公方足利家の勝利。 |
戦いの背景
1454年 12月27日 |
鎌倉公方の足利成氏によって関東管領の上杉憲忠が謀殺され、享徳の乱が勃発した。 |
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1455年 1月5日 |
足利成氏は上杉家の本国である上野国を攻略するために鎌倉を出発して武蔵国府中の高安寺に入った。この報せを聞いた上杉持朝はその留守に鎌倉を奪おうとして出陣した。 |
1455年 1月6日 |
上杉持朝は相模国島河原で鎌倉の留守を預かっていた武田信長の迎撃にあって敗退した。この報せを聞いた長尾景仲は直ちに上野国・武蔵国の兵を率いて府中に向けて出撃し、上杉一族もこれに合流すべく出陣した。 |
戦いの経緯
1455年 1月21日 |
府中近郊に結集した上杉軍は2000騎の兵で高安寺に攻め寄せるが、足利成氏軍は分倍河原に500騎で討って出た。足利成氏軍の突撃に不意を突かれた上杉軍は混乱し、先鋒の上杉憲秋は手前の立河原(東京都立川市)で敵の手にかかってしまう。致命傷を負った上杉憲秋は家臣によって間一髪のところで救われたものの、高幡不動(一説には荏原郡池上)で自害した。 |
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1455年 1月22日 |
上杉憲秋の自害を知った上杉顕房らは激怒して新手の500騎をもって分倍河原に進撃した。緒戦で上杉軍先鋒の大石房重らが討たれたものの、足利成氏軍にも多くの犠牲が出たため一進一退となった。そこへ、結城成朝らの軍勢が上杉軍に襲いかかったために上杉軍は後退をはじめ、更に相模国への退路も絶たれたために上杉軍は東に向かって潰走した。 |
1455年 1月24日 |
結城成朝率いる足利成氏軍の追跡は続き、武蔵夜瀬(東京都三鷹市)で包囲された上杉顕房・上杉藤朝は自害して果て、難を逃れた長尾景仲は残った軍をまとめて辛うじて常陸国小栗城(茨城県筑西市)まで落ち延びる事が出来た。 |