上杉憲忠(うえすぎのりただ)
生年月日 | 1433年 |
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没年月日 | 1454年12月27日 |
幼名 | |
通称 | |
別名 | |
官位 | 右京亮 |
家系 | 山内上杉家 |
父 | 上杉憲実 |
母 | |
正室 | 上杉持朝の娘 |
側室 |
年表
1433年 | 山内上杉家の8代目の上杉憲実の長男として生まれる。 |
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1439年 | 父の上杉憲実が永享の乱でかつての主君の足利持氏を滅ぼしたことに対しての自責の念にかられて出家したとき、共に出家した。このため山内上杉家が当主不在となった。 |
1446年 | 家宰・長尾景仲が困り果てて上杉憲実に復帰を要請した。上杉憲実は次男・上杉房顕のみを京都に出仕させてそれ以外の息子は全て僧侶とするつもりであったため、従兄弟である常陸国の佐竹実定を後継者に指名して文書などを譲り渡した。これに反発した長尾景仲は佐竹実定を排除して上杉憲実の長男である龍忠を擁立、やがて元服して上杉憲忠と名乗り山内上杉家の家督を継いだ。 |
1447年 7月10日 |
室町幕府将軍の足利義政が幼かった事から室町幕府の意向を受けて後花園天皇から上杉憲忠に対して直接関東管領に任じる綸旨が出された。 |
1447年 8月 |
足利成氏が鎌倉公方として復帰する。足利成氏は永享の乱で父を殺された経緯から上杉憲実とその子を激しく恨んでおり、上杉憲忠とは犬猿の仲にあった。 |
1447年 11月 |
上杉憲実の意向に反した行動であったため、上杉憲実から上杉憲忠は義絶されることとなった。 |
1450年 | 長尾景仲は上杉憲忠の舅で扇谷上杉家当主の上杉持朝と共謀して足利成氏を攻め滅ぼそうとしたが失敗し、逆に反撃を受けてしまう(江の島合戦)。上杉憲忠は直接この事件には関与していなかったが、家臣の責任を負う形で相模国七沢に蟄居を余儀なくされた。 |
1452年 | 室町幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わった。細川勝元は鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、足利成氏が幕府に申し入れをする場合、上杉憲忠の副状が必須であり、上杉憲忠の副状がない場合室町幕府は取り合わなかった。そうした状況もあって、足利成氏は強い焦燥にとらわれ、上杉憲忠への殺意を一層募らせていった。 |
1454年 12月27日 |
足利成氏と上杉憲忠の対立はさらに深まり、鎌倉にある足利成氏の西御門邸に招かれた上杉憲忠は、足利成氏の命を受けた結城成朝の家臣多賀谷氏家・多賀谷高経の兄弟によって謀殺された(享徳の乱)。22歳。 |