千葉実胤(ちばさねたね)
生年月日 | 1442年 |
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没年月日 | 1466年 |
幼名 | |
通称 | 七郎 |
別名 | |
官位 | |
家系 | 下総千葉家 武蔵千葉家 |
父 | 千葉胤賢 |
母 | |
正室 | 上杉顕房の娘 |
側室 |
年表
1442年 | 下総千葉家の千葉胤賢の長男として生まれる。 |
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1454年 12月27日 |
鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺して享徳の乱が勃発すると下総千葉家は上杉家に与した。 |
1455年 1月末頃 |
かねてから親上杉派である伯父の千葉胤直と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた大叔父の馬加康胤と重臣の原胤房の連合軍が亥鼻城を攻撃した。 |
1455年 3月20日 以降 |
馬加康胤・原胤房に攻められていた亥鼻城が落城し、千葉胤直・千葉胤賢・千葉胤宣・円城寺尚任・千葉実胤・千葉自胤は千田荘に逃れ、多古城・志摩城に籠城した。 |
1455年 8月 |
下総千葉家は援軍に駆けつけた大掾頼幹・大掾幹正の父子と合流して馬加康胤・原胤房と戦ったが、大掾頼幹・大掾幹正・円城寺尚任・円城寺直時・円城寺日向守・狩野朗典らは討死した。 |
1455年 8月15日 |
原胤房に攻められた千葉胤直・千葉胤賢は志摩城に籠城していたが、千葉胤直は大野小五郎らと東禅寺に走り一族郎党とともに自刃した。千葉実胤は父の千葉胤賢と弟の千葉自胤とともに脱出した。 |
1455年 9月7日 |
父の千葉胤賢は小堤城で自刃したが、千葉実胤は弟の千葉自胤と八幡荘の市河城まで逃走した。 |
1456年 1月9日 |
室町幕府8代目将軍の足利義政が派遣した同族で奉公衆の東常縁の支援はあったが、足利成氏の派遣した簗田持助に敗れ市河城も陥落、千葉実胤らは武蔵国へ、東常縁は東庄の近い下総国匝瑳郡へと逃れた。 |
1456年 | 千葉実胤は武蔵国石浜城、弟の千葉自胤は武蔵国赤塚城の城主となる。 |
1456年 2月7日 |
体制を立て直した東常縁は、老尾神社で戦勝祈願をした後に馬加城を攻め落とした。 |
1456年 6月12日 |
東常縁は馬加康胤の子の馬加胤持を討ち取った。 |
1456年 11月1日 |
東常縁は上総国八幡の村田川にまで逃れた馬加康胤を討ち取った。 |
1456年 11月24日 |
原胤房を追放した。 |
1457年 4月 |
外戚である扇谷上杉家の家宰太田資長が江戸城を築城する等、古河公方側に圧力をかけ続けた。確たる所領を持たないため経済的に逼迫し、下総国への帰還も思うに任せない状態であった。 |
1462年 | 下総国への帰還はかなわず、堀越公方の足利政知の執事の渋川義鏡によって讒言されたことで失脚し、隠遁した。家督は弟の千葉自胤が継いだ。 |
1466年 | 25歳で死亡。 |