一万人の戦国武将

上杉顕房(うえすぎあきふさ)

生年月日 1435年
没年月日 1455年1月24日
幼名
通称 三郎
別名
官位 弾正少弼
修理大夫
家系 扇谷上杉家
上杉持朝
正室
側室

年表

1435年 扇谷上杉家の4代目の上杉持朝の長男として生まれる。
1447年
8月
足利成氏が鎌倉公方に復帰した際に上杉持朝が隠居したため、扇谷上杉家の家督と相模国守護を継いだ。
1454年
12月27日
足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱が勃発すると上杉家の一門として上杉憲秋や長尾景仲らとともに軍勢を率いた。
1455年
1月24日
分倍河原の戦いで敗北し、自害した。21歳。扇谷上杉家の家督は長男の上杉政真が幼かったため、父の上杉持朝が当主として復帰した。