一万人の戦国武将

結城成朝(ゆうきしげとも)

生年月日 1439年
没年月日 1462年12月29日
幼名 七郎
通称
別名 結城重朝
官位 中務大輔
家系 下総結城家
結城氏朝
正室
側室

年表

1439年 下総結城家の11代目の結城氏朝の四男として生まれる。
1441年 結城合戦で父の結城氏朝、長兄の結城持朝、次兄の結城朝兼ら一族の多くが戦死した際、幼児であった結城成朝は多賀谷氏家に抱かれて結城城を脱出し、室町幕府の追跡から逃れ、常陸国の佐竹家の許へ落ち延び養育される。
1447年
8月
足利成氏が5代目鎌倉公方となって鎌倉府が復活すると、足利成氏の計らいによって下総結城家の再興も許されることとなる。この際、兄の結城長朝も家督継承に名乗りを上げたが、これを打ち破って家督を継いだ。
1450年
9月30日
夢窓国師の百年忌の大法事が円覚寺黄梅院において執り行われた際、鎌倉公方の足利成氏のもとに参上し、近習として召し抱えられた。足利成氏より偏諱を受けて結城成朝(初名は結城重朝)と改名した。
1454年
12月27日
長尾景仲が長尾郷の御霊宮に泊りがけで参詣に出て鎌倉不在の隙に足利成氏の命を受けて結城成朝は家臣の多賀谷氏家・多賀谷朝経の兄弟に命じて上杉憲忠を謀殺。これをきっかけに享徳の乱が勃発した。
1455年
6月16日
足利成氏が室町幕府から追討を受けて鎌倉を追われた時、これを庇護している。
1460年 この頃から次第に室町幕府と内通するようになる。
1462年
12月29日
上杉憲忠の仇討ちを願う上杉家一族に引き渡されることを恐れた多賀谷朝経に暗殺された。24歳。多賀谷朝経は下総結城家支流の山川家から山川景貞の子の山川基景を擁立しようとしたが、急死したために結城長朝の子の結城氏広が跡を継いだ。