一万人の戦国武将

足利成氏(あしかがしげうじ)

生年月日 1434年
または1431年4月2日
没年月日 1497年9月30日
幼名 万寿王丸または永寿王丸(永寿丸)
官位 従五位下 左馬頭
従四位下 左兵衛督
家系 鎌倉公方足利家
古河公方足利家
足利持氏
正室 簗田直助の娘(伝心院)
側室

年表

1434年 鎌倉公方足利家の4代目の足利持氏の五男として生まれる。幼名は万寿王丸または永寿王丸(永寿丸)。1431年4月2日の説あり。
1439年
11月1日
父の足利持氏は関東管領の上杉憲実・6代目室町幕府将軍の足利義教と対立した結果、兄の足利義久と共に敗死(永享の乱)し、鎌倉公方は廃止された。足利成氏は鎌倉小八幡社に落ち延びた。瑞泉寺の昌在西堂が庇護して常陸国の筑波山中禅寺別当の筑波玄朝と郎党二人がお供して甲斐国に忍び行き、鍛冶の家に隠れた。その後、信濃国佐久郡の大井持光の元で養われる。
1441年
4月
下総国の結城城が陥落した時に、足利持氏の遺児で兄の足利安王丸・足利春王丸・弟の定尊の3人が捕えられたが、足利成氏本人は戦場にはいなかった。この時、足利安王丸・足利春王丸は殺された。
1441年
9月頃~
足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。
1447年
3月
鎌倉府の再興を願い出ていた越後国守護の上杉房朝や関東諸士、上杉家一門・家老、室町幕府管領の畠山持国の支持などの結果、鎌倉府再興が承認され、鎌倉公方足利家の5代目となる。
1447年
7月10日
鎌倉府の補佐役として上杉憲忠が関東管領に任じられる。
1447年
8月
信濃国から相模国鎌倉に帰還した。鎌倉府再興のために運動した足利持氏旧臣や足利持氏方諸豪族、及び結果的には足利持氏を殺した上杉家など、利害が相反する人々の間に置かれることになった。
1449年
6月頃
8代目室町幕府将軍の足利義成(後の足利義政)の偏諱(「成」の一字)を与えられ元服。足利成氏と称する。
1449年
8月27日
左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙された。
1449年
11月29日
鎌倉御所が完成し、足利成氏は移った。
1450年
4月
鎌倉府再興後も、足利成氏の元に集まった旧足利持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷上杉家の両上杉家との緊張関係は改善されなかった。関東管領を務めた山内上杉家の家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家の家宰の太田資清らは、結城家などの進出を阻止するために足利成氏を攻めた(江の島合戦)。足利成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政千葉胤将小田持家宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。なお、この時上杉方の一部も足利成氏に加勢している。従って、この襲撃は長尾・太田両氏が主導したが、上杉家の本意ではなかった。
1450年
5月
難を逃れた足利成氏は、上杉憲実の弟である上杉重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉家の上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領畠山持国は足利成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵・上野の中小武士に対して足利成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の足利成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。
1450年
8月4日
足利成氏は鎌倉に戻る。
1450年
9月30日
夢窓国師の百年忌の大法事が円覚寺黄梅院において執り行われた。足利成氏のもとに参上した里見義実結城成朝を召し抱えた。このとき結城成朝に「成」の字を偏諱した。
1450年
9月・10月
鶴岡八幡宮寺少別当が売却した土地を返却させる、代始めの徳政を行った。関東諸国に向けて、新しい鎌倉公方の権威を誇示する目的であった。
1450年
10月頃
上杉憲忠は関東管領として鎌倉に帰参した。足利成氏は長尾景仲方の武士の所領が没収した。これを契機に、足利成氏と長尾景仲ら上杉憲忠の家臣団との対立は所領問題に発展していった。
1451年 従四位下・左兵衛督に昇進した。
1452年 室町幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わった。細川勝元は鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡した。関東管領を通じて、再び幕府が関東を直接統治する意思を示したものである。兄の成潤が還俗し、足利義氏と名乗り足利成氏に代わる鎌倉公方となるべく結城直朝に書状を送った。
1454年
12月27日
足利成氏は長尾景仲が鎌倉不在の隙に関東管領の上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。里見家、武田家などの足利成氏の側近が長尾実景長尾景住の父子も殺害した。京都では東国から事件の報せが届いた時、父を死に追いやった上杉家への恨みが原因とみなされたが、実際には鎌倉府内部の対立が大きな要因と考えられる。この上杉憲忠の謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発する。
1455年
1月
足利成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を出発した。
1455年
1月21・22日
分倍河原の戦いでは、上杉憲秋上杉顕房を戦死させ、勝利した。
1455年
2月
分倍河原の戦いで勢いに乗じた足利成氏は武蔵国内の上杉側の拠点を次々と攻略した。
1455年
3月3日
長尾景仲が小栗城にいると知ると足利成氏は下総国古河に入り、結城成朝・那須資持筑波潤朝小田朝久・簗田持助・小山持政らの加勢を得て小栗城の攻撃を開始した。
1455年
4月
山内上杉家は、上杉憲忠の弟・上杉房顕を後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は上杉家支援を決定し、後花園天皇から足利成氏追討の綸旨と御旗を得たために、足利成氏は朝敵となる。
1455年
4月3日
駿河国守護の今川範忠が、上杉家の援軍として鎌倉に向けて京都を発った。
1455年
4月19日
足利成氏の要請を受けた那須資持は下野国芳賀郡茂木城を攻めた。
1455年
閏4月
上杉勢が常陸国小栗城に立て籠もると、足利成氏はさらに攻め立てて、小栗城を陥落させた。上杉房顕は上野国平井城に入り、越後国上杉家の援軍と小栗城の敗残兵が、下野国天命・只木山に布陣した。
1455年
5月1日
宇都宮等綱の挙兵に激怒した足利成氏は非難する書状を那須資持に送った。
1455年
6月16日
足利成氏は上杉方の攻略に手間取っている間に木戸家・大森家・印東家・里見家が守る本拠地鎌倉を今川範忠により占拠された。その後、足利成氏は鎌倉を放棄し、下総国古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設けた。古河城を居城とするため修復が行われた。野田持忠は下野国野田城に入り上杉家に対抗した。古河を新たな本拠とした理由は、下河辺荘等の広大な鎌倉公方御料所の拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は足利成氏が後に兄と呼ぶ(兄弟の契盟)ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城家の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の1つになった。
1455年
6月24日
足利成氏は、天命・只木山の西に布陣して対抗した。
1455年
7月
足利成氏は、下野国小山に移動した。京都では享徳から康正に改元されるが享徳を使用し続けた。
1455年
7月25日
足利成氏は、下野国穂積原で上杉勢と戦い敗北する。
1455年 足利成氏の兄で勝長寿院門主であった成潤は自らが別当を兼務する日光山に出奔して上杉方と通じ対抗する姿勢を見せている。
1455年
12月
足利成氏は、下野国天命・只木山の陣を崩壊させ、上杉勢を騎西城まで撤退させた。武田信長らは長尾景仲の籠もる武蔵国騎西城を攻め落とした(武蔵須賀合戦)。
1456年 足利成氏は上杉派の宇都宮等綱の宇都宮城を包囲し、足利成氏に寝返った重臣達に追放され流浪、息子の宇都宮明綱は降伏して足利成氏に従った。
1456年
4月4日
足利成氏は室町幕府管領の細川勝元に対して、上杉家との抗争であり、室町幕府には反意がないことを主張したが、回答は得られなかった。
1456年
9月17日
足利成氏は、武蔵国岡部原合戦で上杉房顕に勝利した。この頃、上杉家の領国だった上総国と安房国に武田信長、里見義実を派遣した。
1457年
9月
京都では、康正から長禄に改元されたものの、足利成氏は享徳を使用し続けて、室町幕府に抵抗する意思を示す。
1457年
10月
足利成氏は、修復が終わった古河城に移った。
1457年 足利成氏は、古河城を中心として、直臣の簗田持助関宿城、関東野田家を栗橋城一色直清幸手城金田則綱菖蒲城金田友綱(後に小田家)を騎西城に置くなど攻守網を形成し、上杉家と拮抗するようになった。
1458年 室町幕府将軍の足利義政は足利成氏への対抗策として、前年に還俗させた異母兄の足利政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。足利政知には山内上杉家の他、渋川義鏡・上杉教朝などが配下として付けられていたが、実権は全て室町幕府に握られており、関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができなかった。そのため、鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆国の堀越に入り、堀越公方と称した。以後、おもに下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野国・武蔵国・相模国・伊豆国を勢力範囲とした室町幕府・堀越公方・関東管領の山内上杉家・扇谷上杉家勢力とが、関東を東西に二分して戦い続ける。武蔵国北部の太田荘周辺と、上野国東部が主な戦場であった。
1458年
9月
室町幕府は五十子へ諸大名に命じて足利成氏の征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏と甲斐常治は両者がお互いを警戒して動かず(長禄合戦)、結城直朝のいる奥羽では国人達が抗争を繰り返していた。
1459年 上杉家が足利成氏に対抗するため、五十子陣を整備し、さらに河越城(川越城)・岩付城(岩槻城)・江戸城などの攻守網を完成させた。
1460年
1月
今川範忠が駿河国に帰還したため討伐軍の編成は思う様に進まなかった。
1462年 室町幕府は、堀越公方の軍事力強化を図り、足利政知の執事・渋川義鏡の子・斯波義廉に斯波家を相続させるも、渋川義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚してしまいこちらも失敗に終わった。
1465年 室町幕府が、今川義忠と武田信昌に関東出陣を命じたが、武田信昌がこれに従ったかは不明。
1467年 京都では度重なるお家騒動を発端として諸大名が2派に分かれて戦い、応仁の乱が勃発、室町幕府は関東に軍勢を送れなくなってしまった。今川義忠は足利政知と相談の上で1000騎を率いて上洛することとなった。
1468年 上野国で綱取原合戦が勃発、足利成氏は敗北した。
1471年
3月
足利成氏は小山家・結城家の軍勢と共に遠征して、伊豆国の堀越公方を攻めたが、敗れて古河城に撤退した。この遠征失敗の影響は大きかった。室町幕府の帰順命令に、小山家・小田家等の有力豪族が応じるようになったため、古河城も安全ではなくなった。
1471年
5月
上杉勢の長尾景信が古河に向けた総攻撃を開始すると、本佐倉の千葉孝胤の元に退避した。しかし上杉勢も古河城に入るだけの力がなかった。
1472年 千葉孝胤、結城氏広、那須資実や弟の尊敒の支援により、足利成氏は古河城に帰還し、後に小山家も再び足利成氏方に戻った。
1477年
1月18日
長尾景春が武蔵鉢形城を拠点として上杉勢の五十子陣を攻撃し、これを破壊したため(五十子の戦い)、対古河公方攻守網が崩れる。最終的に長尾景春の乱は扇谷上杉家の家宰の太田資長の活躍によって鎮圧されるが、上杉家の動揺は大きかった。古河公方勢との戦いだけではなく、上杉家内部の対立や山内・扇谷両上杉家間の対立が大きな問題となったのである。
1478年
1月
危機感を抱いた上杉顕定は、足利成氏と和睦を成立させた(この年を最後に足利成氏側の文書から「享徳」の元号が消えることになる)。
1479年 長年難航していた室町幕府との和睦交渉も、越後国守護の上杉房定が室町幕府管領の細川政元との仲介に立つことで進展した。
1482年
11月27日
古河公方と室町幕府の和睦が成立した。これを「都鄙合体(とひがったい)」と呼ぶ。この結果、堀越公方の足利政知は伊豆国の1国のみを支配することとなり、政治的には足利成氏の鎌倉公方の地位があらためて室町幕府に承認された。
1489年頃 この頃家督を長男の足利政氏に譲った。
1497年
9月30日
64歳で死亡(67歳)。臨終の際には足利政氏を呼び、「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる。」と言い残したとされる。
文学 江戸時代の曲亭馬琴(滝沢馬琴)による読本南総里見八犬伝に、滸河公方足利成氏(なりうじ)として登場する。