一万人の戦国武将

成潤(せいじゅん)

生年月日 1429年
没年月日 1457年
幼名
通称
別名 足利義氏
官位
家系 鎌倉公方足利家
足利持氏
正室
側室

年表

1429年 鎌倉公方足利家の4代目の足利持氏の次男として生まれる。元服の時に将軍の足利義成(のちの義政)より偏諱(「成」の字を受けた。
1439年 永享の乱で足利持氏が自害すると下野国日光山に潜伏した。
1450年 この頃には鎌倉の勝寿門院門主であり、江の島合戦では弟の足利成氏と別行動をとっていた。
1452年
4月
成潤は還俗し、足利義氏と名乗り足利成氏に代わる鎌倉公方となるべく結城直朝に常陸国の小栗六十六郷の宛行を約束し、幕府の要人である細川持賢との連絡を賞し下野国について宇都宮家との相談を行うよう促す書状を送った。
1455年 成潤は自らが別当を兼務する日光山に奔って上杉方と通じ足利成氏と対抗する軍事行動を取り始める。その後、日光山は足利成氏方が掌握するところとなり、成潤は一旦は足利成氏に謝罪の書状を送るが、再び叛旗を翻した。
1457年 武蔵国の五十子陣で死亡。29歳。