一万人の戦国武将

鎌倉公方足利家(かまくらくぼうあしかがけ)

鎌倉公方足利家は、足利将軍家の分家で室町幕府の将軍が関東10カ国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の五男の足利基氏から始まる。関東10カ国とは、相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国・伊豆国・甲斐国である。鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉家は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉公方」となった。なお「鎌倉公方」は自称、あるいは歴史学用語であり、当時の一般呼称ではなかった。当時は鎌倉御所ないし鎌倉殿と呼ばれていた。
2代目鎌倉公方の足利氏満から足利将軍家との対立が始まり、4代目鎌倉公方の足利持氏は関東管領の上杉氏憲(禅秀)の補佐を受けていた。1416年に上杉禅秀の乱が起こり、関東管領とも対立していった。1439年に6代目将軍の足利義教は、前関東管領の上杉憲実を討伐しようと軍を起こした4代目鎌倉公方の足利持氏を、上杉憲実と共に攻め滅ばした(永享の乱)。1440年3月に足利義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝・結城持朝の父子などが足利持氏の遺児の足利春王丸・足利安王丸・定尊を奉じて挙兵する結城合戦が起こる。1441年4月16日に結城氏朝・結城持朝は討死し、結城城は落城した。足利持氏の遺児のうち、足利春王丸・足利安王丸は足利義教の命を受けた長尾実景によって美濃国で殺された。定尊は京都に送られた(結城合戦)。1447年3月に室町幕府は関東地方の安定を図るため、鎌倉府の再興を願い出ていた越後国守護の上杉房朝や関東諸士、上杉家一門・家老、室町幕府管領の畠山持国の支持などの結果、足利持氏の子の足利成氏を立てることを許し、鎌倉府は再興された。5代目鎌倉公方の足利成氏は、1454年12月27日に上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱を起こした。1455年6月16日に本拠地鎌倉を駿河国守護の今川範忠に占領され、下総国古河に本拠を移したので、以後古河公方足利家となる。

家系図

鎌倉公方足利家