定尊(じょうそん)
| 生年月日 | 1438年 |
|---|---|
| 没年月日 | 1472年 |
| 幼名 | |
| 通称 | 雪ノ下殿 |
| 別名 | |
| 官位 | |
| 家系 | 鎌倉公方足利家 |
| 父 | 足利持氏 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1438年 | 鎌倉公方足利家の4代目の足利持氏の七男として生まれる。 |
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| 1439年 | 父の足利持氏は関東管領の上杉憲実・6代目室町幕府将軍の足利義教と対立した結果、兄の足利義久と共に敗死(永享の乱)し、鎌倉公方は廃止された。定尊は結城家で養われる。 |
| 1440年 3月 |
足利義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝・結城持朝の父子などが足利持氏の遺児の兄の足利春王丸・足利安王丸・定尊を奉じて挙兵する結城合戦が起こる。 |
| 1441年 4月 |
下総国の結城城が陥落した時に、足利安王丸・足利春王丸・定尊の3人が捕えられた。この時、足利安王丸・足利春王丸は美濃国で殺されたが、定尊は京都に送られた。 |
| 1441年 9月頃~ |
足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。 |
| 1447年 3月 |
上杉家の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた越後国守護の上杉房朝や関東諸士、上杉家一門・家老、室町幕府管領の畠山持国の支持などの結果、鎌倉府再興が承認され、兄の足利成氏が鎌倉公方足利家の5代目となる。 |
| 1449年 8月 |
京都の土岐持益邸にいた定尊は鎌倉に向けて出立し、鶴岡八幡宮寺の若宮別当になる。 |
| 1455年 6月16日 |
駿河国守護の今川範忠に鎌倉が占領されると、足利成氏とともに下総国古河に移った(享徳の乱)。 |
| 1472年 | 35歳で死亡。 |
