簗田持助(やなだもちすけ)
生年月日 | 1422年 |
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没年月日 | 1482年4月6日 |
幼名 | |
通称 | |
別名 | |
官位 | 中務丞 中務少輔 河内守 |
家系 | 簗田家 |
父 | 簗田助良 |
母 | |
正室 | |
側室 |
年表
1422年 | 鎌倉公方の4代目の足利持氏の家臣で下総国水海城主・簗田家2代目の簗田助良の長男として生まれる。元服の時に足利持氏から偏諱を賜り、簗田持助と名乗る。 |
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1438年 | 永享の乱の際、簗田持助は父の命を受けて、甥にあたる足利持氏の六男の足利成氏を鎌倉から脱出させると、父ゆかりの水海城へと退いて再起の期を待った。父の簗田助良は足利持氏に従い死亡した。家督を継いで水海城主となる。 |
1447年 8月 |
足利成氏が鎌倉公方として鎌倉に入ると出仕する。その際、奏者として足利成氏の補佐役を務める。 |
1450年 | 武蔵国品川の豪商の鈴木道胤宛てに出された蔵役免除の御教書を足利成氏の名で発給している。その一方で、簗田持助は関東管領上杉家の重臣の長尾家伝来の所領を足利成氏の命令で没収しようとしたため、長尾景仲・太田資清が足利成氏打倒を画策、難を逃れた足利成氏と長尾家・太田家の間で江ノ島で軍事衝突(江の島合戦)を引き起こす原因を作った。 |
1455年 6月16日 |
足利成氏が上杉家や今川範忠によって鎌倉を追われると、軍を率いて自らの根拠地の近くである古河に足利成氏を避難させ、以後、足利成氏は「古河公方」を名乗る(享徳の乱)。 |
1457年 ~ 1482年 |
足利成氏が、古河城を中心として、直臣の簗田持助を関宿城、関東野田家を栗橋城、一色直清を幸手城、佐々木家を菖蒲城に置くなど攻守網を形成した。簗田持助は子の簗田成助と共に周辺の反対派勢力や上杉家との戦いや千葉家の内紛などに参加して古河公方の勢力を関東の北部から東部にかけての一帯に広げることに成功した(享徳の乱)。 |
1482年 4月6日 |
61歳で死亡。 |