上杉持朝(うえすぎもちとも)
生年月日 | 1416年 |
---|---|
没年月日 | 1467年9月6日 |
幼名 | 竹寿丸 |
通称 | |
別名 | 道朝 |
官位 | 弾正少弼 修理大夫 |
家系 | 扇谷上杉家 |
父 | 上杉氏定 |
母 | |
正室 | |
側室 |
年表
1416年 | 扇谷上杉家の2代目の上杉氏定の次男として生まれる。幼名は竹寿丸。 |
---|---|
1419年 | 扇谷上杉家の3代目の兄の上杉持定が死亡したため、従弟で小山田上杉家の上杉定頼の補佐を受ける形で家督を継いだ。 |
1433年 | 扇谷上杉家の所領内の武蔵国久良岐郡にあった徳恩寺本地堂の棟札が資料上の初見で元服から程ない18歳であった。扇谷上杉家の当主は通字である「定」と鎌倉公方(当時の公方は足利持氏)の一字を受けて実名としていたが、既に兄の上杉持定が既にその名乗りを用いていたため、通字である「定」の代わりに祖先である上杉朝定の「朝」を用いて、「持朝」と名乗った。 |
1439年 | 永享の乱では、関東管領の上杉憲実に従って足利持氏討伐に功績を挙げた。この後、修理大夫に任ぜられる。 |
1440年 | 結城合戦でも室町幕府軍の副将を務めて武功を挙げている。 |
1441年 | 上杉憲実は隠退を表明し、後継者に指名された弟の上杉清方の力量に不安を覚えた室町幕府は上杉憲実の復帰を説得する一方で、上杉清方の補佐として上杉持朝の協力を期待した。 |
1447年 | この頃までに相模国守護に任ぜられる。 |
1447年 7月10日 |
上杉清方が急死して、上杉憲実の子である上杉憲忠が関東管領に就任すると、娘を上杉憲忠に嫁がせたことにより、上杉持朝は実力者として認められる。 |
1447年 8月 |
足利持氏の子の足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、かつて足利持氏を滅ぼしたことを憚り、嫡男の上杉顕房に家督を譲って出家し、道朝と号した。 |
1454年 12月27日 |
上杉憲忠が足利成氏に謀殺されると、上杉持朝は上杉憲忠の弟の上杉房顕を新たな関東管領に擁して、自身は裏で実権を牛耳った(享徳の乱)。 |
1455年 1月22日 |
分倍河原の戦いにおいて上杉顕房が足利成氏軍に討たれ、それ以降は上杉持朝が再び当主として活動している。これにより古河公方となった足利成氏と敵対関係となった。 |
1457年 | 足利成氏に対抗するために家宰の太田資清・資長の父子に命じて河越城・江戸城・岩槻城の三城を築城させ、自らは河越城を居城とし、武蔵国の分国化を進めた。 |
1462年 | 兵粮料所の設置を巡る争いから堀越公方となっていた足利政知と敵対関係となる。このため上杉持朝は足利政知を支援する8代目将軍の足利義政からの詰問を受ける。結果、上杉持朝の代わりに責任を負う形で大森氏頼・三浦時高・千葉実胤の3重臣が引退することになり、上杉持朝の勢力は大いに低下した。これを機に上杉持朝は足利成氏と和睦して足利政知と争おうとしたが、その和議を果たせなかった。 |
1467年 9月6日 |
52歳で死亡。 |