茂木城(もてぎじょう)
別名 | 桔梗城 |
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所在地 | 下野国芳賀郡茂木 栃木県芳賀郡茂木町小井戸461-1 |
築城主 | 茂木知基 |
築城年月日 | 1197年 |
廃城年月日 | 1610年 |
城主 | 茂木知基 |
城代 | |
構造 | 山城 余り高さの変わらない山上の南端部分を北の大地から切り離すように、北側に空堀と横堀を設けている。そして切り離した台地の中央を取り囲むように、各曲輪が円形に設けられ、外側を防御する形になっている。南西端には東西に長い長方形の本丸があり、西端はコの字状に高土塁がある、北側の裾部には浅い空堀が東西に走り、北西側では二ノ丸と区画する空堀となる。 二ノ丸は西側中央にあり、植林された平坦な地形で土塁はない。北端に薮化している部分が三ノ丸で、二ノ丸との間は空堀で区画される。三ノ丸の北側は横堀になっており、横堀の西端は二ノ丸と三ノ丸の間の空堀と合流する。この三つの曲輪が中央の千人溜まりを囲むように配置され、東側に南北に空堀が走る。台地の南東端にあるのが出丸でここに櫓を模した展望台がある。主郭はこの南西端にある長方形の高台で、西側をコの字状の高土塁が巡っている。主郭の北西側に南北にやや長い曲輪が二郭、北側に東西に長い薮化した曲輪が三郭。この三つの曲輪が中央を取り囲むようになっており、中央の広大な平地は「千人溜り」と呼ばれている。 |
年表
1197年 | 宇都宮家の一族の茂木知基が築城。 |
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1336年 | 茂木知貞・茂木知世の父子は北朝方として各地を転戦するが、留守中に南朝方の北畠顕家に攻められた。 |
1455年 4月19日 |
享徳の乱で宇都宮等綱が足利成氏と対立。足利成氏の要請を受けた那須資持に攻められた。 |
1556年 | 佐竹家に攻められた茂木家はこれに臣従、以後佐竹家の影響下に入る。 |
1585年 | 天谷場の合戦で伊勢氏流北条家・結城家らの連合軍によって1度は城を落とされているが、佐竹家の援軍を得て奪回した。 |
1594年 | 佐竹義重の命によって茂木治良は常陸国小川城へ移った。代わって佐竹家の家臣の須田盛秀が城主となった。 |
1595年 | 佐竹家の家臣の須田治則が城主となった。 |
1610年 | 佐竹家が秋田に移封となり、代わって細川興元が茂木に入り、城下に陣屋を設けたため廃城となった。 |