一万人の戦国武将

栗橋城(くりはしじょう)

別名
所在地 下総国葛飾郡
茨城県猿島郡五霞町元栗橋154
築城主 野田持忠
築城年月日 1455年頃
廃城年月日 1590年
城主 野田持忠
野田弘朝
野田景範
北条氏照
城代
構造 平城
城域は東西300m、南北500mにわたり、11の曲輪から構成された。外郭は第1から第4曲輪、内郭は第5から第11曲輪であった。特に第6・7・9・10の4つの曲輪が中枢部である。第7曲輪が本丸と考えらる。

年表

1455年頃 足利成氏が相模国鎌倉から下総国古河に本拠地を移した。古河城を中心とした攻守網として野田持忠が築城した(享徳の乱)。
1567年
5月
野田景範は北条氏照から起請文を与えられ、伊勢氏流北条家に従属した。起請文の中で栗橋城明け渡しを要求され、野田景範は栗橋城主としての地位を失った。
1569年 北条氏政と上杉輝虎との間に越相同盟が成立し、古河城・栗橋城の帰属を巡る交渉が行われた際には、北条氏照から野田景範に対して、「栗橋城は野田景範の本地であることを理由に伊勢氏流北条家が確保すること、栗橋城を野田景範に返還する意向であること」が示された。
1569年
7月
野田景範は栗橋城の在城を命じられた。
1572年
12月
野田景範は所領争いや伊勢氏流北条家の家臣との闘乱事件により、伊勢氏流北条家の許で不満が募っていたため、離反した。栗橋城は伊勢氏流北条家の攻撃を受けて落城した。以後、栗橋城は北条氏照の北関東攻略の拠点となった。
1590年 小田原征伐後に徳川家康の家臣の小笠原秀政が古河藩に入部した際には、古河城修復の間に居城としたが、修復が終わり古河城に移った後は廃城となった。