野田持忠(のだもちただ)
生年月日 | 1390年~1400年頃 |
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没年月日 | 1456年以降 |
幼名 | |
通称 | 弥三郎 |
別名 | 野田右馬助 |
官位 | 右馬助 |
家系 | 関東野田家 |
父 | 野田満範 |
母 | |
正室 | |
側室 |
年表
1390年 ~ 1400年頃 |
鎌倉府の奉行衆の宿老で関東野田家の当主の野田満範の長男として生まれる。 |
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1416年 10月10日 |
上杉禅秀の乱で父の野田満範が討死し、関東野田家の当主と古河城の城主となる。 |
1440年 | 結城合戦が起こると野田持忠の家臣の加藤伊豆守などは共に鎌倉公方方として野田城に軍勢を集めて上杉家方を討つべく評定を行った。野田持忠は古河城に家臣の矢部大炊助らと籠城した。 |
1441年 | 結城合戦で結城城陥落直後に上杉清方が来襲し落城した。野田持忠は逃走し、矢部大炊助は討死した。 |
1447年 3月 |
鎌倉府が再興されると足利成氏の家臣として活動を始めた。 |
1451年 | 野田持忠は上杉家の家臣に押領された知行に強入部した。これは足利成氏派が自力での失地回復を目指した活動の一つであるが、室町幕府から批判されることになる。 |
1455年 6月16日 |
足利成氏が上杉方の攻略に手間取っている間に留守にしていた本拠地鎌倉を今川範忠により占拠された。その後、足利成氏は鎌倉を放棄し、下総国古河を本拠地とした。古河城を居城とするため修復が行われた。野田持忠は下野国野田城に入り上杉家に対抗した(享徳の乱)。 |
1455年 | 野田持忠は上野国の岩松持国を足利成氏に取り次いだ。 |
1456年 以降 |
これ以降の動静は不明のため、隠居または死亡したと思われる。 |