一万人の戦国武将

小山持政(おやまもちまさ)

生年月日
没年月日 1471年
幼名
通称
別名
官位 下野守
家系 小山家
小山満泰
正室
側室

年表

1402年以前 小山家12代目の小山満泰の長男として生まれる。元服の時に鎌倉公方の足利持氏より偏諱を受けて小山持政と名乗る。
1438年 永享の乱では鎌倉公方の足利持氏に味方した一族の結城家に敵対し、室町幕府方に味方した。
1440年 弟の結城氏朝が足利持氏の遺児の足利春王丸・足利安王丸の兄弟を擁して結城城で室町幕府に対する兵を挙げた(結城合戦)。この時、結城家が一族の惣領的な地位にいたため一族の多くは結城方として室町幕府軍と戦ったが、小山持政は室町幕府軍に味方して活躍した。
1441年 小山持政は下野守に任ぜられ、小山家は小山義政以来、久方ぶりに下野国守護に復帰し、宗家断絶後の復興を成し遂げた。
1454年
12月27日
享徳の乱が勃発すると鎌倉公方の足利成氏を支持して活動した。
1455年
3月3日
長尾景仲が小栗城にいると知ると足利成氏は下総国古河に入り、結城成朝・那須資持・筑波潤朝・小田朝久・簗田持助・小山持政らの加勢を得て小栗城の攻撃を開始した。
1455年
閏4月
小山持政ら足利成氏派は上杉勢が立て籠もる小栗城を陥落させた。長尾景仲は上野国に逃れた。関東管領の上杉房顕は上野国平井城に入り、越後国上杉家の援軍と小栗城の敗残兵が、下野国天命・只木山に布陣した。
1455年 小山持政は上杉派の宇都宮等綱と戦う。後に足利成氏の信頼を得た小山持政は目覚しい活躍を見せ、足利成氏と「義兄弟の契り」を交わすほどの人物となっていく。
1455年
6月16日
室町幕府軍によって鎌倉が占領されると、足利成氏は小山持政の影響力が及び、鎌倉府の御料所の多い古河に本拠地を移した。以後、足利成氏は古河公方と呼ばれる。
1458年 足利成氏にかわる鎌倉公方として、8代目将軍の足利義政の異母兄の足利政知を関東へ下向させた。しかし、足利成氏を支持する小山家、結城家らの勢力を恐れて鎌倉へは入らず、伊豆国堀越にとどまった。長男の小山氏郷と孫の小山虎犬丸を病気で失ったため、小山持政は老齢にも関わらず小山家の当主として足利成氏を助けて、各地を転戦して上杉方の軍勢と合戦を続けた。
1460年 室町幕府からの帰順命令を拒絶した。
1464年 再びの室町幕府からの帰順命令を拒絶した。
1466年 再三の室町幕府からの帰順命令を拒絶した。
1471年 4度目の室町幕府からの帰順命令には重臣の離反の危機などを受けて、命令に応じた。その後の動向は不明だが、この年のうちに死亡した。小山家は養子の小山成長が継いだ。