一万人の戦国武将

菖蒲城(しょうぶじょう)

別名 あやめ城
所在地 武蔵国埼玉郡新堀村
埼玉県久喜市菖蒲町新堀985-2
築城主 金田則綱
築城年月日 1456年5月5日
廃城年月日 1590年
城主 金田則綱
金田氏綱
金田定綱
金田頼綱
金田秀綱
城代
構造 平城

年表

1456年
5月5日
古河公方の足利成氏が家臣の金田則綱に命じて築城させた。城の竣工が5月5日の菖蒲の節句であったため菖蒲城と命名された。
1525年 足利高基と山内上杉家は対立中であり、足利高基方の菖蒲城は上杉憲寛(足利晴直)に攻撃された。金田定綱は、渋江三郎に救援を求め、渋江三郎は北条氏綱へ援軍派遣要請をしたため、弓隊200人が菖蒲城の救援に向かった。
1538年
10月
第一次国府台合戦で足利義明・里見義堯らの連合軍と北条氏綱・北条氏康の父子の軍勢が激突した。この戦いに菖蒲城主の金田定綱は足利義明に従ったが、足利義明・足利基頼の兄弟は討死し、伊勢氏流北条家の勝利で終わった。敗戦とともに菖蒲城に逃げ帰り、足利高基のもとに帰参した。
1564年 菖蒲城主の金田頼綱は伊勢氏流北条家の麾下として武蔵国笠羽田に500貫の地を拝領した。
1574年 上杉輝虎が第三次関宿合戦に際して伊勢氏流北条家方の武蔵国の諸城に攻撃を加えたとき、菖蒲城主の金田秀綱は騎西城・岩槻城などとともに徹底的に放火された。
1590年 小田原征伐後に伊勢氏流北条家が滅亡すると廃城となり、金田秀綱は浪人となった。