一万人の戦国武将

足利義政(あしかがよしまさ)

足利義政
生年月日 1436年1月2日
没年月日 1490年1月7日
幼名 三寅 三春
通称 室町殿 東山殿
別名 足利義成
官位 征夷大将軍
正五位下 侍従 左馬頭
従四位下 参議 右近衛中将
従三位 権大納言
従二位
従一位 右近衛大将 右馬寮御監 内大臣 左大臣 贈太政大臣
家系 足利将軍家
足利義教
日野重光の娘(日野重子)
正室 日野重政の娘(日野富子)
側室 大舘持房の娘(大舘佐子)
今川範将の娘

年表

1436年
1月2日
室町幕府6代目将軍の足利義教の五男として生まれる。幼名は三寅のちに三春と呼ばれる。次期将軍として期待されていた同母兄の足利義勝が政所執事の伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、その可能性が低かった足利義政は母方の一族である公卿の烏丸資任の屋敷にて育てられた。そして、後継者の地位から外された他の兄弟と同じく慣例に従い、出家して然るべき京都の寺院に入寺し、僧侶として一生を終えるはずであった。
1441年
6月24日
父の足利義教が嘉吉の乱で赤松満祐に殺害された後、兄の足利義勝が室町幕府7代目将軍として継いだ。
1443年
7月12日
足利義勝も早逝したため、足利義政は管領の畠山持国などの後見を得て、その後継者として選出された。 後継者と決まった直後より、足利義政は将軍家の家長たる呼称「室町殿」と呼ばれる。
1446年
12月13日
足利義政は後花園天皇より、義成の名を与えられた。このとき、後花園天皇が宸筆を染め、天皇による命名といった形式が取られていることから、先例にならったものとされる。また、「成」の字が選ばれた理由としては、「義成」の字にどちらも「戈」の字が含まれていることより、戊戌の年に生まれた祖父の足利義満の武徳が重ねられたと考えられている。
1447年
2月7日
正五位下に昇叙し、侍従に任官。
1449年
4月16日
足利義政は元服した。
1449年
4月29日
征夷大将軍宣下を受けて、正式に室町幕府8代目将軍として就任した。同日のうちに吉書始を行って、宮中に参内している。
1449年
8月27日
従四位下に昇叙し、参議に補任。右近衛中将を兼任。
1450年
1月5日
従三位に昇叙。
1450年
3月29日
権大納言に転任。
1450年
6月27日
従二位に昇叙。権大納言に留任。
1451年 今参局の讒言で前尾張守護代であった織田郷広の復帰を図ったが、尾張国・越前国・遠江国守護である斯波義健や守護代の甲斐常治の反対を受けて足利義政の意のままに動かすことはできなかった。
1451年 足利義教の死後に中断していた勘合貿易を復活させ、経済交流と文化発展に寄与した。
1453年
3月26日
従一位に昇叙。
1453年
6月13日
足利義政は義成から義政に改名した。理由としては、後花園天皇の第一皇子(のちの後土御門天皇)の諱が、成仁親王と決まったことであった。諱を口にすることは古来より忌避されており、天皇候補者の名が決まった際には臣下はその字が含まれた名を改名するのが常であり、足利義政も慣例に従ったのであった。
1454年 御教書を発給、この頃から親政を始めたとされる。
1454年
8月21日
畠山家のお家騒動が起こり、山名持豊と細川勝元が畠山持国の甥の畠山政久を庇護して畠山持国と子の畠山義就を京都から追い落とした。足利義政はこの問題で畠山義就を支持した。
1454年
8月29日
畠山政久を匿った細川勝元の被官を切腹させた。
1454年
11月2日
山名持豊の討伐命令を下した。
1454年
11月3日
山名持豊が隠居したため討伐を撤回した。
1454年
12月13日
山名持豊が但馬国に下向した後、畠山義就が上洛、足利義政と対面して家督相続を認められ、畠山政久は没落した。足利義政の畠山義就支持は、細川家・山名家に対抗するため、尾張国守護代問題で今参局を介して畠山持国を抱き込んだからで、山名持豊の討伐命令も畠山義就復帰の一環とされ、同時に嘉吉の乱で山名持豊に討伐された赤松家の復興を狙ったとされる。
1455年
6月16日
享徳の乱が発生し、関東管領の上杉房顕・駿河国守護の今川範忠・越後国守護の上杉房定らを出陣させ、幕府軍は鎌倉を落とし、足利成氏は古河に逃れて古河公方を名乗った。
1455年
8月27日
右近衛大将を兼任。日野重政の娘の日野富子を正室に迎える。「三魔」と呼ばれる乳母の今参局(御今)、育ての親とも言える烏丸資任、将軍側近の有馬元家(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人を三魔と称した)や母の日野重子と正室の日野富子の実家の日野家、有力な守護大名等が政治に介入していき、足利義政が将軍としての政治の主導権を握ることは困難を極めた。
1456年
1月5日
右馬寮御監を兼任。
1458年 関東は膠着状態となり、異母兄の足利政知を鎌倉公方として下向させたが、足利政知は鎌倉へ入れず堀越に留まり、堀越公方となる。
1458年
2月
不知行地還付政策で寺社本所領の回復及び守護と国人の繋がりの制限を図った。
1458年
7月
不知行地還付政策が原因の1つとなり甲斐常治と斯波義敏が越前国で長禄合戦を引き起こした。
1458年
7月25日
内大臣に転任。右近衛大将を兼任。
1458年
8月9日
山名持豊を赦免した。
1458年
10月14日
赤松家が後南朝から神璽を奪還し朝廷に安置された。足利義政はこの功績で赤松政則を北加賀の守護に任命、赤松家を復帰させた。これは細川勝元と相談の上で行った懐柔策とされる。
1459年 長年住み慣れた烏丸殿から父の足利義教が住んでいた花の御所へと移り住み、親政の拠点として位置づけようとした。
1459年 畠山義就が上意と称して度々大和国に軍事介入したため、次第に疎遠となり、畠山政久を赦免した。
1459年
8月
斯波義敏は享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前国守護代であった甲斐常治の反乱の鎮圧を行ったため、足利義政は抗命を理由に斯波家の当主交代を行い、斯波義敏の子の斯波義寛へ当主を交代させた。長禄合戦は甲斐常治が勝利したが、直後に甲斐常治も没し、関東派遣は見送られた(武衛騒動)。斯波軍が関東に出陣しなかったため奥州の諸大名の信用を失い、以後奥州大名は幕府の命令に従わず関東に出陣しなかった。足利義政は相次ぐ政策の失敗により方針を転換、派閥の結成を目論んだ。
1459年 正室の日野富子との間に男子があったが早世してしまった。すると日野富子は実子の早世は今参局が呪詛したものであるとして、彼女を琵琶湖の沖ノ島に流罪にした。このため、以後は日野富子や伊勢貞親・季瓊真蘂ら将軍側近の権勢が強まった。
1460年 畠山政久が死去した後は弟の畠山政長が細川勝元に擁立され、山名持豊も復帰したため、家督を畠山義就から畠山政長に交代させた。
1460年
8月27日
左大臣に転任。右近衛大将を兼任。
1461年 寛正の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらし、一説では賀茂川の流れが餓死者の死骸のために止まるほどであったとされる。このような状況の中、足利義政は邸宅や日本庭園の造営などや猿楽、酒宴に溺れていった。
1461年 斯波家の家督交代を行い、斯波義寛を廃嫡して渋川義鏡の子斯波義廉を当主に据えた。この行為は堀越公方の足利政知の執事である渋川義鏡を斯波家当主の父という立場で斯波家の軍勢動員を図った。
1461年
寛正の大飢饉の中で花の御所を改築し、後花園天皇が勧告したことさえ無視をした。
1461年
8月9日
右近衛大将を辞任。
1462年 抵抗していた畠山義就は吉野へ逃れた。
1462年 渋川義鏡は関東で上杉家と対立、失脚してしまったため、斯波義廉から斯波義敏に交代して改めて関東政策を実行しようとした。
1463年
8月
母の日野重子が死亡したため、畠山義就と斯波義敏・斯波義寛の父子を赦免した。但し、追討令解除と身の安全の確保に過ぎず、当主復帰は認めなかった。
1464年 勧進能を行い、この頃に隠居を考えるようになり、日野富子との間に嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定した。
1464年
11月28日
准三宮を宣下される。
1465年 足利義政によって廃嫡されることを恐れた斯波義廉は山名持豊と畠山義就を頼り、大内政弘も山名持豊と連携する。
1465年
3月4日
華頂山(かちょうざん)で花見を行い、公家や武家を引き連れ、黄金で箸を作るなど、衣服調度は華美を極めた。花の下で連歌会を催し、足利義政自ら「咲き満ちて花より外(ほか)の色もなし」と詠じた。
1465年
10月
細川勝元の要請で伊予の河野通春討伐に逆らい河野通春を支援した大内政弘に討伐命令を下したが、密かに大内政弘を支援した上、大内政弘の元にいた義敏に伊勢貞親と季瓊真蘂を通して上洛を命じた。
1465年
11月
日野富子に男児(後の足利義尚)が誕生した。日野富子は足利義尚の将軍後継を望み、政権の実力者であった山名持豊に協力を頼んだ。一方の足利義視は管領の細川勝元と手を結んだ。この足利将軍家の家督継承問題に対し、足利義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けた。一方で、足利義視を養子にした理由は大御所として政治の実権を握る意図もあったとされ、足利義尚誕生後も足利義視の立場を変えなかったのは足利義尚が成長するまでの中継ぎにするためとされる。
1465年
12月30日
大内政弘の元に落ち延びていた斯波義敏は伊勢貞親と季瓊真蘂の画策で上洛して足利義政と対面した。名実とともに赦免をされることになるが、これを知った斯波義廉が足利義政に迫って30日付で斯波義廉が引き続き領国を支配し、斯波義敏の被官が勝手な行動をすることを禁じる幕府の奉行人奉書が出された。奉書を受けた興福寺(越前国内に荘園を持つ)の尋尊は足利義政の行動について「上意の儀太だ其意を得ず」と困惑を表明している。
1466年
7月23日
斯波義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じて斯波義敏を家督に据えた。
1466年
7月28日
琉球国王の来朝使者である芥隠承琥が足利義政邸で直接に謁見しており、庭先に席を設けて、その上で三拝した。礼物も「進物」と呼ばれた。
1466年
7月30日
河野通春を援助して室町幕府から追討命令を受けていた大内政弘を赦免したが、これは大内家と斯波家の引き入れを図ったとされる。
1466年
8月25日
足利義政は、斯波義敏に越前国・尾張国・遠江国の3ヶ国の守護職を与えた。
1466年
9月6日
武衛騒動をきっかけに発生した文正の政変によって守護大名達の圧迫を受けた伊勢貞親・季瓊真蘂・斯波義敏らは逃亡、足利義政側近層は解体に追い込まれ、手足となる家臣を喪失した足利義政は完全に政治への意欲を失っていった。
1467年
1月
山名持豊の呼び出しで上洛していた畠山義就は、足利義政に家督復帰を許され、反発した畠山政長と合戦に及んで遂に応仁の乱が起こる。戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模なものへ発展した。
1467年
6月
足利義政は当初は中立を貫き停戦命令を出したが、東軍の細川勝元に将軍旗を与え、西軍の山名持豊追討を命令、足利義視が西軍に逃げ込んだこともあり、東軍寄りの態度を明確にした。
1467年
8月
後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所に避難すると、足利義政は急遽御所を改装して仮の内裏とした。天皇家と足利将軍家の同居と言う事態は様々な波紋を生み出した。後花園法皇は天皇在位中より足利義政と蹴鞠の趣味を通じて親交が厚かったが、同居によって公武関係に引かれていた一線が崩れ去り、足利義政と日野富子は度々内裏に充てられていた部屋において法皇や天皇とともに宴会を開いた。
1467年
9月2日
左大臣を辞任。
1468年 足利義政がかつて足利義視を陥れようとした伊勢貞親を政務に復帰させると、これに反発した足利義視は西軍へと出奔した。これにより、足利義視が将軍に就任することは無くなった。
1470年
12月
後花園法皇が崩御しているが、その最期を看取ったのは足利義政と日野富子であり、足利義政は戦乱中の徒歩での葬列参加に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀・法事に関する全ての行事に参列した。
1471年
5月21日
西軍の有力武将の朝倉孝景の寝返り工作も行い、越前国守護職を与える書状を送っている。
1473年
12月19日
西軍の山名持豊、東軍の細川勝元の両名が死亡したことを契機に、将軍職を子の足利義尚へ譲って正式に隠居した。
1476年 花の御所が京都市街の戦火で焼失、小川殿に移ったが、日野富子と足利義尚が小川殿へ移ると、足利義政は日野富子の居所を造営した。天皇は北小路殿(日野富子所有の邸宅)に御所を移した。
1477年 応仁の乱は終結したが、足利義尚とはこの頃から意見の食い違いが起こり、日野富子とも仲が悪くなっていく。当時は室町殿(足利義尚)に対し東山殿(足利義政)と呼ばれ、政治の決定機関がふたつに分裂していたようである。そのためか、以後はさらに文化的な活動に拍車がかかった。
1481年 日野富子から逃れるように長谷の山荘に移った。
1482年 東山山荘の建築を本格化させるが、諸大名からは石の献上はあっても、費用の取り立ては思うようにいかず、京都がある山城国の公家領・寺社領からの取り立てで補うこととなった。また、祖父の足利義満が建てた金閣をベースにした銀閣などを建てた。
1482年
7月
足利義政は天下の政務を譲ることを表明した。
1482年
11月27日
足利成氏と和睦し、享徳の乱を終結とした。
1483年
6月
建物がある程度完成した東山山荘に移り住み、以降は足利義政は「東山殿」、足利義尚を「室町殿」と呼ぶこととなった。だが、実際には足利義尚は多くの分野で足利義政の承認が無ければ裁許を行うことが出来なかった。
1484年 赤松政則と浦上則宗の対立を仲介して和解へ導いた。
1485年
4月
後土御門天皇直々に御料所からの年貢の滞りの相談を受けて自腹で5000疋を用立てて皇室の財政難を救うなど、依然として影響力の大きさを示していた。
1485年
5月
足利義尚の側近奉公衆と足利義政の側近奉行衆が武力衝突する事件が起こるなど、足利義政と足利義尚の対立は激化した。
1485年
8月15日
足利義政は剃髪して出家し、事実上政務から離れることを決めた。
1486年
12月
改めて政務からの引退を表明した。しかし、対外関係と禅院関係(所領問題や公帖の発給)については最後まで足利義政は権限を手放そうとせず、伊勢貞宗や亀泉集証の補佐を受けて自身で裁許した。例えば、和泉国守護が堺南荘の代官を得て支配に乗り出そうとした際、領主である崇寿院の依頼を受けて同荘を崇寿院の直務支配にすることを決定している。
1488年 室町幕府の権威回復のために足利義尚が六角討伐を行うと、幕府軍(足利義尚の側近や奉公衆)らによる現地の寺社本所領の兵粮料所化による事実上の押領が行われ、却って被害を受けた寺社などの荘園領主達からは足利義政の政務への関与による救済が期待される状況となった。
1489年
3月26日
足利義尚が六角討伐の陣中で死去したため、やむなく政務の場に復帰することを決意するが、日野富子が足利義政の復帰に反対し、さらに足利義政自身も中風に倒れて政務を執ることが困難となったため、美濃の土岐成頼の下に亡命していた足利義視と和睦し、甥(足利義視の長男)の足利義材(のちの足利義稙)を自らの養子に迎えることで室町幕府10代目将軍に指名して後事を託した。
1490年
1月7日
銀閣の完成を待たずして死亡。55歳。
1490年
2月17日
贈太政大臣。
文化 庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた(後に慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る)。この時代の文化は、金閣に代表される室町幕府3代目将軍の足利義満の時代の華やかな北山文化に対し、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。初花、九十九髪茄子など現在に残る茶器も作られた。
人物 勘合貿易の復活、足利義政から実権を奪った守護大名や側近の幕府官僚の財政再建策が功を奏して、足利義政の治世前半は足利義満の時代と並んで、幕府財政は安定期であったとされている。だが、皮肉にも実権を奪われたことで政務への関心を失った足利義政はその成果を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やしてしまい、応仁の乱後の財政難の原因を作ってしまった。その後、貿易の実権は細川家や大内家によって握られ、足利将軍家は経済的にも衰退した。
文学
足利義政を主題とした作品
三島由紀夫「中世」
司馬遼太郎「妖怪」
瀬戸内晴美「幻花」
永井路子「銀の館」
池波正太郎「応仁の乱」
山田風太郎「室町少年倶楽部}
朝松健「東山殿御庭」
映像
足利義政を主題とした作品
NHK大河ドラマ「花の乱」(演者・西谷卓統・11代目市川海老蔵・12代目市川團十郎)