一万人の戦国武将

不知行地還付政策

背景

1454年~ 政策の背景には、守護側の寺社領への支配が挙げられる。守護は荘園の横領で家臣に与えたり、使節遵行や刈田狼藉で荘園の紛争に介入したり、守護請で領主の年貢納入を請け負う代わりに自分か家臣にその役割を負わせて収入を得るなどして守護領国制への指向を強めていった。足利義政は、そうした守護と家臣(国人)の関係を制限しようとしてこの政策を実行した
1456年 甲斐常治の甲斐家は将軍の屋敷訪問と家督の安堵を受けていて、守護と同じ義務を負っていた。しかも甲斐常治は斯波家の執事でもあったため、領国における権勢が大きくなり、守護権をもって国人との結びつきを強めており、幕府と深い繋がりがあったため、不知行地還付政策を支持していた。甲斐常治派と幕府の政策によって荘園の代官職を奪われた国人衆は斯波義敏を頼り、斯波義敏も甲斐常治を排除して直接国人衆との結びつきを狙ったため、両者は衝突した。斯波義敏が甲斐常治を非難して足利義政に訴えたが、甲斐常治に非ありと認める訳にいかなかったため、斯波義敏を敗訴として斯波義敏が出奔、斯波義敏の被官と甲斐常治の家臣が刃傷沙汰を起こす騒ぎに発展した。
1457年 足利義政は斯波義敏と甲斐常治を和解させ、甲斐常治派が奪った所領を斯波義敏派に返還するよう命令したが、返還がなかなか進まなかった。

経緯

1458年
2月
足利義政は相国寺と鹿苑寺に実効支配が及ばない所領(不知行地)の還付を認める御教書を発布した。続いて越前国でも所領の還付が行われ、寺社も還付された所領に代官を派遣、直接支配(直務)に乗り出した。幕府も寺社領の代官に幕臣を任命、派遣して寺社領への影響を及ぼした。
1458年
7月
長禄合戦が勃発、斯波義敏は堀江利真を、甲斐常治は息子の甲斐敏光と朝倉孝景を越前国に派遣、本格的な内戦に発展した。足利義政は関東の堀越公方の足利政知の救援の総大将として斯波義敏の斯波軍を派遣する予定だったが、和睦が決裂して内戦が起こったことに怒り、斯波義敏と甲斐常治の和睦と関東出陣を命じたが、両者は互いに警戒して出陣せず、堀江利真は斯波義敏の許可なしに寺社の直接支配を認めないと抵抗した。
1459年
2月
室町幕府の和睦工作も斯波義敏方国人の反対で失敗した。
1459年
5月
甲斐常治方が優勢になり、斯波義敏は甲斐常治方の金ヶ崎城を攻めたが逆に敗北、激怒した足利義政によって当主の地位を追われた。
1459年
8月
甲斐常治派が勝利したが、まもなくして甲斐常治が没したため、守護と守護代は斯波義敏の子の斯波義寛と甲斐常治の孫の甲斐信久に代えられた。肝心の関東征伐は当事者達が追放されたり死去したため行われず、現地の幕府派が反幕府派の古河公方の足利成氏らの戦闘に敗北(太田庄の戦い)、足利義政の関東政策は失敗に終わった。
1467年~ 応仁の乱で斯波家は分裂、斯波義廉に就いた朝倉孝景は足利義政の工作で斯波義敏に寝返り、甲斐敏光ら斯波義廉方の国人を破って越前国の実効支配を推し進め、危機感を抱いた斯波義敏も退けて事実上越前国を乗っ取った。その過程で国人に半済を分け与え、所領の横領も行ったため、室町幕府の還付政策は失敗に終わった。
1471年4月上旬 興福寺大乗院門跡経覚は朝倉孝景の横領に対抗するため、越前国河口庄に代官として和田本覚寺住持蓮光を派遣したが、合わせて親交があった本願寺第8世法主蓮如を河口庄の吉崎に下向させた。蓮如はここを拠点に浄土真宗の布教に励むことになる。
1478年 還付政策の実施に乗り出したが、応仁の乱で足利将軍家の権威が失墜していたため、成果は挙げられなかった。
1487年

1491年
9代目将軍の足利義尚と10代目将軍の足利義稙も寺社領横領を繰り返す近江国の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)を強行したが、いずれも失敗に終わり幕府の失墜に繋がった。