武衛騒動(ぶえいそうどう)
背景
1454年 12月27日 |
鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺して享徳の乱が勃発した。 |
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1458年 9月 |
室町幕府は五十子陣へ諸大名に命じて足利成氏の征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏と甲斐将久は両者がお互いを警戒して動かなかった(長禄合戦)。 |
経緯
1459年 8月 |
斯波義敏は関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前国守護代であった甲斐将久の反乱の鎮圧を行ったため、足利義政は抗命を理由に斯波家の当主交代を行い、斯波義敏の子の斯波義寛へ当主を交代させた。長禄合戦は甲斐将久が勝利したが、直後に甲斐将久も没し、関東派遣は見送られた。 |
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1460年 | 堀越公方の足利政知は戦力不足であり、さらなる軍事動員が必要であると室町幕府に訴えている。 |
1461年 10月16日 |
足利義政の特命により、斯波家の家督は斯波義寛を廃嫡し、渋川義鏡の子の斯波義廉が相続することになった。足利政知の要望に応じ、執事である渋川義鏡が「斯波家当主の実父」という立場から足利一門最強の斯波軍を動員することができるように工作したとされる。 |
1462年 | 渋川義鏡は関東で上杉家と対立、失脚してしまったため、斯波義廉から斯波義敏に交代して改めて関東政策を実行しようとした。将軍家の政所執事の伊勢貞親は8代目将軍の足利義政の信任を良いことに、斯波武衛家のお家騒動に介入し斯波義敏と斯波義廉の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた。 |
1465年 | 足利義政によって廃嫡されることを恐れた斯波義廉は山名持豊と畠山義就を頼り、大内政弘も山名持豊と連携する。 |
1465年 12月30日 |
大内政弘の元に落ち延びていた斯波義敏は伊勢貞親と季瓊真蘂の画策で上洛して足利義政と対面した。 |
1466年 7月23日 |
足利義政は斯波義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じて斯波義敏を家督に据えた。 |
1466年 8月25日 |
足利義政は、斯波義敏に越前国・尾張国・遠江国の3ヶ国の守護職を与えた。 |
1466年 9月6日 |
守護大名達の圧迫を受けた伊勢貞親・季瓊真蘂・斯波義敏・赤松政則は逃亡、足利義政側近層は解体に追い込まれ、手足となる家臣を喪失した足利義政は完全に政治への意欲を失っていった(文政の政変)。 |
1466年 9月14日 |
斯波家の家督は斯波義廉に戻された。 |
1467年 ~ 1477年 |
応仁の乱が勃発すると斯波義敏・斯波義寛の父子と赤松政則は将軍の足利義政を戴く東軍に属し、それぞれ斯波武衛家の家督・赤松家の家督及び守護職を奪還し、伊勢貞親と季瓊真蘂も赦免されて帰京するなど、それぞれ復権した。ただし伊勢貞親と季瓊真蘂に活躍の場は与えられなかった。 |