今川範将(いまがわのりまさ)
生年月日 | 不詳 |
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没年月日 | 1464年 |
幼名 | |
通称 | |
別名 | 堀越範将 |
官位 | 伊予守 陸奥守 治部少輔 |
家系 | 遠江今川家 |
父 | 今川貞相 |
母 | |
正室 | |
側室 |
年表
1415年頃 | 遠江今川家4代目の今川貞相の長男として生まれる。 |
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1438年 | 今川家宗家とされていた駿河国守護の今川範忠が永享の乱の戦功によって、室町幕府6代目将軍の足利義教より「天下一苗字」(「今川」姓を今川範忠の直径子孫である今川家宗家の独占とする)命令が出されたため、やむなく姓を「堀越」と改めた(改姓の時期は今川範将の死後とする説あり)。 |
1441年 | 対立していた遠江国守護の斯波家との火種に加え、甲斐家が守護所に立て籠もり抗争に発展した。この守護所は見付城となる。この時の挙兵の中心は今川貞秋で、斯波持種に敗れた今川貞秋は駿府で自害させられた。 |
1459年 | 今川範将側が起こした局地的な一揆がいよいよ大規模な合戦となり(中遠一揆)、斯波家・狩野家と見付の地で戦いを重ねた。斯波家も鎮圧のため、朝倉孝景と甲斐敏光を派遣した。 |
1464年 | 決定的な戦果が無いまま膠着化、そのさなか死亡した。長男の今川貞延が家督を継いだ。 |