一万人の戦国武将

畠山持国(はたけやまもちくに)

生年月日 1398年
没年月日 1455年3月26日
幼名
通称
別名 徳本
官位 従四位下 左衛門督
従三位
家系 畠山金吾家
畠山持家
正室
側室

年表

1398年 室町幕府三管領家の畠山金吾家の7代目の畠山満家の長男として生まれる。4代目室町幕府将軍の足利義持より偏諱(「持」の字)をうけて持国(「国」は祖父などが使用した畠山家の通字)と名乗る。
1429年 室町幕府に出仕し、6代目将軍足利義教の元服式では出家していた父の代わりを務めた。
1432年 大和永享の乱で大和国へ出兵する。
1433年 父の畠山持家の死亡により家督を相続。室町幕府の重臣として会議に参加した。父の死後、6代目将軍の足利義教は「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷き、三管領家に対する干渉を強めるようになる。
1434年 足利義教が延暦寺に軍勢を派遣させて包囲すると諫言して両者を和睦させる。
1435年 再度大和国に出陣し、大和国宇智郡守護に任命された。
1441年 畠山持国は結城合戦への出陣を拒んだことから足利義教によって家督を弟の畠山持永に譲らされ隠居を余儀なくされる。富樫教家が足利義教の怒りを恐れて出奔、弟の富樫泰高が還俗して守護となる。
1441年
6月
赤松満祐によって足利義教が暗殺される事件が勃発する(嘉吉の乱)。畠山持国はただちに挙兵して畠山持永を討ち、家督を奪還した。足利義教が死亡すると、富樫泰高は富樫教家派の守護代の本折家に攻め込まれた。畠山持国はこの紛争で富樫教家を支持する。
1441年
8月
京都で嘉吉の土一揆が蜂起した時、鎮圧に反対して管領の細川持之と対立する。一揆構成員の中に山城国の畠山家被官が紛れていた事が理由だった。
1442年 7代目将軍に足利義教の嫡子の足利義勝が就任し、赤松家が討伐されると細川持之は管領を辞任し、畠山持国が管領となる。出家し徳本(とくほん)入道と名乗る。加賀国守護を富樫泰高から富樫教家の子の富樫成春に変えた。大和国では大和永享の乱で没落した越智家栄を復帰させ、足利義教の怒りを買った前大乗院門跡・経覚も復権させた。
1443年 赤松満祐が擁立していた足利義尊を討ちとる。足利義勝が病死すると足利義政の8代目将軍就任に運動する。禁闕の変に対処した。先の大乱で室町幕府方の成身院光宣・筒井順永の兄弟と交戦中に経覚についた古市胤仙・豊田頼英・小泉重弘に大和の支配権を委ねた。
1444年 嘉吉の乱平定の功労者だった山名持豊を懐柔するため、赤松満祐の従弟の赤松満政が領有する播磨国東三郡を山名持豊に与え、伊勢貞親と足利義政の擬似父子関係を取り結んだ。
1446年 信濃国守護の小笠原家は当主の小笠原宗康と従兄の小笠原持長が対立、小笠原宗康が戦死して弟の小笠原光康が後を継いだ。畠山持国は小笠原持長を支持していた。
1447年
3月
鎌倉公方に復帰した足利成氏に好意的な対応をとっていた。
1447年
6月
細川家に支援されていた富樫泰高が有利であったが、決着がつかないまま、京都で土一揆が発生、両派共に止む無く妥協、加賀を北と南に2分割して、富樫成春・富樫泰高に分け与えた。
1448年 畠山持国には嫡出の男子が無く、弟の畠山持富を後継としていたが、庶子の畠山義夏(のちの畠山義就)を召し出し畠山持富を廃して後継とする。一部の家臣の反対に遭い、新たに甥で畠山持富の子の畠山弥三郎(畠山政久)が後継者に擁立され家臣団は弥三郎派と義就派に分裂した。
1450年 江の島合戦の仲裁に当たった。守護領国となった山城国で守護支配を貫こうとして荘園横領や課税を行い南山城に影響力を持つ興福寺や山城国人と対立した。足利義政が乳母今参局の介入で元尾張国守護代の織田郷広の復帰を図り、母の日野重子の反対に遭い撤回したが、畠山持国は足利義政の提案を受け入れている。足利義政が守護への対抗上、今参局を通して畠山家を抱きこむ狙いがあった。
1451年 畠山持国が2回目の管領在任期に信濃国守護を小笠原光康から小笠原持長に変更させた。
1454年 細川勝元の後援の元、成身院光宣も反撃するに及んで戦況は一進一退、古市胤仙の急死もあって和睦した。義就派の遊佐家(遊佐国助など)が弥三郎派の神保家(神保国宗など)の屋敷を襲撃する事件が勃発し、血で血を洗う内紛が始まることになる。
1454年
8月21日
当初は義就派が優勢であったが、畠山家の弱体化を狙う細川勝元と山名持豊により弥三郎派が盛り返し、屋敷を焼き討ちされ、畠山義就は失踪する。
1454年
8月28日
畠山持国は隠居した。
1454年
12月13日
足利義政の介入で畠山義就が上洛、畠山弥三郎は没落した。
1455年
3月26日
58歳で死亡。家督は畠山義就が継いだ。