宇都宮等綱(うつのみやひとつな)
生年月日 | 1420年 |
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没年月日 | 1460年3月1日 |
幼名 | 藤鶴丸 |
通称 | |
別名 | |
官位 | 下野守 |
家系 | 下野宇都宮家 |
父 | 宇都宮持綱 |
母 | 宇都宮満綱の娘 |
正室 | 小山満泰の娘 |
側室 | 那須氏資の娘 |
年表
1420年 | 宇都宮城主で下野宇都宮家13代目の宇都宮持綱の長男として生まれる。幼名は藤鶴丸。 |
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1423年 8月 |
父の宇都宮持綱が鎌倉公方の足利持氏と対立した末に横死し、足利持氏に擁立された庶流と推定される宇都宮家綱に家督を奪われた。藤鶴丸は宇都宮を脱出して諸国を流浪し、後に足利持氏と対立していた篠川公方の足利満直の庇護下に入った。 |
1431年 | 足利持氏と室町幕府6代目将軍の足利義教が一時和睦した際にも足利義教が藤鶴丸を宇都宮家の正当な当主とする態度を示している。また、宇都宮家中も2つに分かれ、塩谷家や芳賀家は宇都宮家綱を、武茂家は藤鶴丸を支持していたと考えられている。 |
1435年 | この頃までに元服し、宇都宮等綱と名乗り、足利持氏が宇都宮継承を認めている。 |
1439年 | 永享の乱で足利持氏が敗死したのを機に宇都宮に復帰した。 |
1441年 | 結城合戦においては宇都宮等綱は戦功を挙げ、結城方についた宇都宮家綱が討ち死にしたため、宇都宮等綱の地位がようやく安定した。 |
1447年 8月 |
足利持氏の子の足利成氏が鎌倉公方に復帰するとこれに従った。 |
1450年 4月 |
足利成氏方として江の島合戦で戦功を挙げる。 |
1455年 3月 |
足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺したために享徳の乱が勃発し、宇都宮等綱のもとにも室町幕府から足利成氏討伐令が下されると、室町幕府に従い(父の恨みを晴らすため)足利成氏討伐の兵を挙げた。 |
1455年 5月1日 |
宇都宮等綱が挙兵したことに足利成氏の怒りは相当のもので、那須資持に対して批難する書状を送った。 |
1455年 6月16日 |
足利成氏が上杉方の攻略に手間取っている間に木戸家・大森家・印東家・里見家が守る本拠地鎌倉を今川範忠とともに占拠した。 |
1456年 | 古河に逃れて古河公方となった足利成氏によって宇都宮城は包囲され、宇都宮等綱は足利成氏軍の圧力と重臣の裏切りによって宇都宮城から追放され、家督を子の宇都宮明綱に譲って出家隠棲する。 |
1458年 | 一時上洛して還俗し、奥州白河の大名の結城直朝に保護された。 |
1460年 3月1日 |
宇都宮に戻れないまま41歳で死亡。 |