一万人の戦国武将

古河城(こがじょう)

別名 古河御陣
古河御所
所在地 下総国葛飾郡
茨城県古河市
築城主 下河辺行平
築城年月日 1180年頃
廃城年月日 1873年
城主 下河辺行平
野田持忠
足利成氏
土井利勝
足利高基
足利晴氏
簗田晴助
足利義氏
小笠原秀政
松平康長
小笠原信之
小笠原政信
奥平忠昌
永井直勝
永井尚政
土井利勝
土井利隆
土井利重
土井利久
土井利益
堀田正俊
堀田正仲
松平信之
松平忠之
松平信輝
松平信祝
本多忠良
本多忠敞
松平康福
土井利里
土井利見
土井利厚
土井利位
土井利亨
土井利則
土井利与
城代
構造 平山城
ほぼ北から南に向かって流れる渡良瀬川の東岸に位置した。古河城が築かれた台地は、川とその東側に広がる沼地にはさまれ、北から南に伸びる半島状になっていた。戦国時代の構造はよく知られておらず、古河公方御所に大きな「四足御門」があったこと、御所の周辺に宿所と呼ばれる家臣団の集落があった。舟で往来可能な古河公方館と一体となり、あわせて広大な水城を形成していた。江戸時代の城域は、水堀を含むとおおむね東西約0.45ー0.55km、南北約1.8km 程度の広さであり、関東有数の規模であった。城域の西側は川に接し、残りの三方を水堀に囲まれていた。城域の東南から南側は、通行が困難な沼地であり、これらの沼地と渡良瀬川を生かした水に守られた要害であった。構造は、土塁に囲まれた複数の曲輪が、直線状に配置された連郭式である。主な曲輪は、北から順に、観音寺曲輪、桜町曲輪(丸の内)、三の丸、二の丸(西側)/本丸(東側)、頼政曲輪、立崎曲輪である。そのほかに、桜町曲輪の東側には、水堀(百間堀)の先に「出城」と呼びならわされる諏訪曲輪があった。

年表

1180年頃 下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に館を築いた。
1183年 小山朝政が志田義広を破った野木宮合戦では、古河城も拠点の一つになった。
1200年

1300年頃
この頃は鎌倉幕府の北条家の支配下にあった。
1340年頃 北朝方の高師冬が入城し、常陸国小田城に滞在した南朝方の北畠親房と対峙。この頃、古河城は足利家の拠点であった。
1382年 南朝方を称した小山義政が来襲。城主の上杉憲栄の代官・下河辺朝行は防戦したが落城。
1386年 2代目鎌倉公方の足利氏満が小山義政の遺児の若犬丸の乱を鎮圧するため入城。この頃、野田家が城主になった。
1440年 結城合戦では、結城方の野田持忠・矢部大炊助らが籠城する。
1441年 結城合戦で結城城陥落直後に上杉清方が来襲し落城した。
1455年
6月16日
足利成氏が上杉方の攻略に手間取っている間に不在にしていた本拠地鎌倉が武田信長らを破った今川範忠により占拠された。その後、足利成氏は鎌倉を放棄し、下総国古河を本拠地とし、古河城を居城とするため修復が行われた。野田持忠は下野国野田城に入り上杉家に対抗した。
1457年
10月
足利成氏は立崎の古河城を整備して居城とした。足利成氏が古河を本拠に選んだ理由は、前面の利根川や渡良瀬川が上杉家に対する天然の堀となり守りやすいこと、小山家や結城家等、足利成氏を支持する諸将の根拠地が近いこと、鎌倉公方家の御料所があり経済的な基盤となったことが挙げられる。
1471年 山内上杉家の家宰である長尾景信が来襲。足利成氏は古河城を放棄した。
1472年 古河城を上杉家から奪回した。
1493年 足利成氏は、城の鬼門除けとして、鎌倉の長谷観世音を勧請した。
1512年 足利政氏が小山成長の小山祇園城へ走り、足利高基(3代目古河公方)が入城した。
1554年 伊勢氏流北条家に対抗して、足利晴氏・足利藤氏の父子が籠城。敗れて相模国波田野に幽閉された。和睦後に足利晴氏は一旦帰城したが再度捕えられ、栗橋城に幽閉された。
1558年 北条氏康の圧力により、古河公方足利家の重臣の簗田晴助は、本拠地である関宿城を足利義氏に進上し、代わりに古河城を居城とした。
1561年 関東に侵攻した上杉輝虎は、簗田晴助による足利藤氏の公方擁立を支援。足利藤氏・関白の近衛前久・上杉憲政が入城した。
1562年 伊勢氏流北条家が古河城を奪回した。
1569年 北条氏康と上杉輝虎との和睦が成立。足利義氏が入城し、伊勢氏流北条家の支援のもとに古河公方の地位を確立した。
1590年 豊臣秀吉が小田原征伐の後に城の破却令を出した。
1590年 徳川家康に従っていた小笠原秀政が入部し、城を修復・拡張した。小笠原秀政は城の修復の間、栗橋城に滞在。
1602年 松平康長が城主となる。松平康長は観音寺曲輪と百間堀を築き、追手門を設けた。
1612年 小笠原信之が城主となる。
1614年 小笠原政信が城主となる。
1617年 徳川秀忠が日光社参の際、古河城に宿泊し、小笠原政信が接待した。
1619年 奥平忠昌が城主となる。奥平忠昌は立崎曲輪と諏訪曲輪(長谷曲輪)を拡張したほか、城下でも侍屋敷の拡張、町屋敷の移転を行い、現在の古河市(旧市街)の町割のもとになった。
1622年 徳川秀忠が日光社参の際、古河城に宿泊し、奥平忠昌が接待した。
1622年 永井直勝が城主となる。永井直勝は御成門を築いた。
1626年 永井尚政が城主となる。
1629年 徳川家光が日光社参の際、古河城に宿泊し、永井尚政が接待した。
1632年 徳川家光が日光社参(遥拝)の際、古河城に立ち寄り、永井尚政が饗応した。
1633年 土井利勝が城主となる。土井利勝は、前任地の佐倉城にならって、本丸に御三階楼を造営したほか、本丸御殿、二の丸御殿を造営した。
1634年 徳川家光が日光社参の際、古河城に立ち寄り、土井利勝が饗応した。
1636年 徳川家光が日光社参の際、古河城に立ち寄り、土井利勝が饗応した。
1640年 徳川家光が日光社参の際、古河城に立ち寄り、土井利隆が父の代理で饗応した。
1642年 徳川家光が日光社参の際、古河城に立ち寄り、土井利勝が饗応した。
1644年 土井利隆が城主となる
1657年 土井利重が城主となる。
1673年 土井利久が城主となる。
1675年 土井利益が城主となる。
1681年 堀田正俊が城主となる。
1684年 堀田正仲が城主となる。
1685年 松平信之が城主となる。
1686年 松平忠之が城主となる。
1687年 江戸幕府を批判した熊沢蕃山が預けられ、城内の立崎曲輪に幽閉される。
1694年 松平信輝が城主となる。松平信輝は城内の頼政神社を整備した。
1709年 松平信祝が城主となる。
1712年 本多忠良が城主となる。
1751年 本多忠敞が城主となる。
1759年 松平康福が城主となる。
1762年 土井利里が城主となる。
1776年 徳川家治が日光社参の際、古河城に宿泊し、土井利見が接待した。
1777年 土井利見が城主となる。
1777年 土井利厚が城主となる。
1822年 土井利位が城主となる。
1832年 土井利位が雪華図説を著した。
1843年 徳川家慶が日光社参の際、古河城に宿泊し、利位が接待した。江戸幕府将軍による最後の社参となる。
1848年 土井利亨が城主となる。
1848年 土井利則が城主となる。
1867年 土井利与が城主となる。
1873年 政府の廃城令により、城の取り壊しが決定した。
1874年 建造物がすべて破却された。
1910年

1925年
渡良瀬川の改修工事により、城跡がほぼ消滅した。