一万人の戦国武将

里見義実(さとみよしざね)

生年月日 1416年
または1412年または1417年
没年月日 1488年4月7日
または1487年または1489年
幼名
通称
別名
官位 左馬助
刑部少輔
家系 里見家
安房里見家
里見家基
正室 武田信長の娘
側室

年表

1416年 里見家の10代目の里見家基の長男として生まれる(美濃国里見家庶流出身の説あり)。1412年・1417年の説あり。
1439年 永享の乱で里見家基が鎌倉公方の足利持氏とともに自害すると母とともに一族が治める常陸国那珂郡小原に落ち延びた。
1450年
9月30日
夢窓国師の百年忌の大法事が円覚寺黄梅院において執り行われた際、鎌倉公方の足利成氏のもとに参上し、仕えた。
1454年
12月27日
足利成氏が、上杉憲忠を御所に出仕させ、御所に入った上杉憲忠を結城成朝・里見義実・武田信長・印東式部少輔が300人の手勢を連れて取り囲んだ。結城成朝の家臣の多賀谷氏家・多賀谷朝経の兄弟によって上杉憲忠は謀殺された。(享徳の乱)
1456年
9月
足利成氏の命で安房国の上杉派の豪族に対抗するため入国し、安西家に仕えた。安房国朝夷郡白浜に白浜城を築いて本拠とした。
1486年 安房国安房郡に稲村城の築城を開始した。
1488年
4月7日
73歳で死亡。1487年または1489年の説あり。