上杉房顕(うえすぎふさあき)
生年月日 | 1435年 |
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没年月日 | 1466年2月12日 |
幼名 | 龍春 |
通称 | 八郎 |
別名 | |
官位 | 兵部少輔 |
家系 | 山内上杉家 |
父 | 上杉憲実 |
母 | |
正室 | |
側室 |
年表
1435年 | 山内上杉家の5代目の上杉憲実の次男として生まれる。幼名は龍春。 |
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1441年 | 永享の乱と結城合戦に勝利した上杉憲実は上杉房顕以外の兄弟をすべて出家させた。上杉房顕はしばらく従兄で越後国守護の上杉房朝の下に留め置かれた。 |
1444年 | 上杉憲実から越後国と丹波国の所領を与えられ、上洛して8代目将軍の足利義政の近臣として仕えた。 |
1454年 12月27日 |
関東管領で兄の上杉憲忠が鎌倉公方の足利成氏によって謀殺されると次の関東管領に迎え入れられることが決まった(享徳の乱)。 |
1455年 3月 |
新たな関東管領に任命され、足利成氏の討伐軍の大将として関東へ下向した。 |
1455年 4月 |
上杉房顕は上野国平井城へ入った。 |
1457年 | 上杉房顕は、五十子陣を築城した。 |
1459年 10月14日 |
上杉房顕は、太田庄の戦いにおいて大敗を喫したが、足利成氏が撤退したため五十子陣は上杉軍に確保された。以後、両陣営は付近の五十子陣を挟んで長期にわたって睨み合った。 |
1463年 8月26日 |
上杉房顕は、山内上杉家の家宰の長尾景仲が病没し、関東管領からの辞意を表明したが、室町幕府に拒絶された。 |
1466年 2月12日 |
五十子陣において死亡。32歳。関東管領は従甥の上杉顕定が継いだ。 |