一万人の戦国武将

小田持家(おだもちいえ)

生年月日 1402
没年月日 1481
幼名 金寿丸
通称 太郎
別名
官位 讃岐守
治部少輔
家系 常陸小田家
小田治朝
正室
側室

年表

1402 常陸小田家10代目の小田治朝の長男として生まれる。父は早くに亡くなり、祖父の小田孝朝に養育される。元服の時に鎌倉公方の足利持氏より偏諱を受けて持家と名乗る。
1414年 小田孝朝が死亡するが、この頃に家督をついだと思われる。常陸小田家の11代目当主となる。小田城主。
1416年 常陸小田家は関東の政治においては非主流派であり、それに不満な小田持家は上杉禅秀の乱の際には上杉氏憲(禅秀)に味方し、上杉氏憲らの敗北の後は降参したものの足利持氏により所領の一部を没収され、常陸小田家をさらに衰退させることになる。
1439年 永享の乱で関東管領の上杉憲実に味方し足利持氏を滅ぼす。
1441年
4月16日
結城合戦で関東管領の上杉憲実に味方し足利持氏派の結城家を滅ぼした。その後は旧領回復をめざして信太荘へ勢力を侵食させ、江戸崎土岐家と戦う。
1450年
4月
江の島合戦で鎌倉公方の足利成氏に味方し活躍した。
1454年
12月27日
享徳の乱が勃発すると、足利成氏に味方し、関東管領の上杉家と戦う。
1455年 長男の小田朝久に先立たれると、孫の小田成治を養育・後見した。
1459年
11月
常陸国で佐竹実定・江戸通房と戦い、勝利する。
1481年 80歳で死亡。