一万人の戦国武将

佐竹実定(さたけさねさだ)

生年月日
没年月日 1465年
幼名
通称 六郎
別名
官位
家系 佐竹家
山内上杉家
佐竹義人
正室
側室

年表

1420年以降 常陸国守護で佐竹家12代目の佐竹義人の次男として生まれる。
1444年 関東管領職の引退を望む山内上杉家の上杉憲実の養子となり、山内上杉家当主に推された。佐竹実定の父の佐竹義憲は11代目関東管領の上杉憲定の子であることから、佐竹実定も上杉家の血統であることになり、それを見込まれた。佐竹家の通字である「義」が使われていない佐竹実定の名も、上杉憲実の養子となった際に改名し、「実」は上杉憲実から「定」は祖父で関東管領職に在った上杉憲定の偏諱を受けたものと考えれば、上杉憲実がこの佐竹実定を山内上杉家当主、そして関東管領職に就けようと考えていたであろうことがうかがえる。
1446年 山内上杉家では重臣の長尾景仲の画策によって上杉憲忠が当主に据えられたため、佐竹実定が上杉家を継承することはなかった。
1452年 分裂抗争を起こして兄の佐竹義俊を佐竹家本拠の常陸国太田城から追放し、代わって自らが入部して佐竹家当主としての存立を図った。
1465年 死亡。この頃まで太田城に在った。