一万人の戦国武将

多賀谷氏家(たがやうじいえ)

生年月日 1408
没年月日 1465年6月19日
幼名 彦四郎
通称
別名 金子祥永
官位
家系 多賀谷家
多賀谷光義
正室
側室

年表

1408年 多賀谷家9代目の多賀谷光義の長男として生まれる。幼名は彦四郎。
1441年 結城合戦で結城城が室町幕府軍によって落城した際、多賀谷氏家は幼児であった結城成朝を抱いて脱出し、常陸国の佐竹家を頼り、結城成朝を養育する。
1447年
8月
足利成氏が鎌倉公方に就任したのを機会に結城に帰り主家を再興し、旧領を回復する。
1454年
12月27日
足利成氏の命により関東管領の上杉憲忠を急襲し、多賀谷氏家・多賀谷朝経の兄弟は上杉憲忠の首を討ち取った(享徳の乱)。この功により、下妻三十三郷を与えられ、さらに結城家の家老の身分でありながら、関東諸将の会合に列席する地位を得た。また、うえ杉憲忠の首が三方に載った様子が瓜を横切りにしたように見えたことから、足利成氏は多賀谷家の紋を瓜に一文字にせよと命じたとも伝えられている。
1455年 常陸国関郡下妻荘に下妻城の築城を開始した。
1461年 下妻城が完成し、以降、多賀谷家代々の居城となった。
1465年
6月19日
58歳で死亡。家督は多賀谷朝経の次男の多賀谷家稙が継いだ。