一万人の戦国武将

多古城(たこじょう)

別名 多胡城
所在地 下総国香取郡千田荘
千葉県香取郡多古町多古
築城主 不明(千葉家一族?)
築城年月日 鎌倉時代以降
廃城年月日
城主 円城寺家
飯土井家
牛尾胤仲
城代
構造 平山城
南北約1000メートル、東西の最大のところで約400メートルである。北部には大小数郭があった。東北には千葉家の信仰する妙見社を祀った小郭があり、鬼門に当たることから、城の守護神として祀られた。

年表

鎌倉時代
以降
築城年・築城主ともに不明であるが、多古地方はかつて千田荘に属し、鎌倉時代以降に千葉家の地盤であった。
1455年
3月20日
以降
馬加康胤・原胤房に攻められていた亥鼻城が落城し、千葉胤直・千葉胤賢・千葉胤宣・円城寺尚任は千田荘に逃れ、多古城・志摩城に籠城した。
1455年
8月12日
馬加康胤に攻められた千葉胤宣は多古城に籠城していたが、馬加康胤は、城を遠巻きにして兵糧を止める長期包囲の作戦をとった。籠城の兵は日に日に困窮し、逃亡するものが相次ぎ、20人余りになり陥落した。千葉胤宣は城の近くの阿弥陀堂で自刃した。
1573年 飯土井家が居住していたが、牛尾城主の牛尾胤仲が多古城を攻め落とし居城とした。
1585年
2月6日
伊勢氏流北条家に従わなかった牛尾胤仲は飯櫃城の山室家に攻められ逃亡した。
1590年 徳川家康の関東入封の際には保科正光がこの地を与えられ、山麓に屋敷を構えた。この頃廃城になったと思われる。