一万人の戦国武将

東常縁(とうつねより)

生年月日 1405年1月15日
没年月日 1484年3月16日
幼名
通称 六郎
東野州
別名 素伝(号)
官位 正六位上
従五位下 左近将監 下野守
家系 郡上東家
東益之
藤原家の娘
正室
側室

年表

1405年
1月15日
郡上東家の5代目の東益之の三男として生まれる。元服後、一族の野田家の家督を継いだと思われる。
1445年頃 兄の東氏数から家督を相続する。郡上東家7代目当主。室町幕府奉公衆となる。兄の子の東元胤を差し置いて家督を継いだのは、東元胤が若年であったため、室町幕府に仕える力量と和歌の家としての体面などがあった。
1448年
2月23日
東常縁は甥の藤原氏保のために「定家仮名遣」を写して奥書きを添えて与えた。
1449年
3月10日
東常縁は兄の東氏数と歌の友である正徹を訪ねて、歌道を学ぶ上で常に見るべきものは「三代集(万葉集、古今集、新古今和歌集)」の他に何があるか尋ねた。このころ、東常縁は父兄所縁の東福寺招月庵正徹書記(冷泉流)、建仁寺常光院堯孝法印(二条流)と、御子左流の流れながら相対する二人の名歌人を訪ね歩いて学んでいた。清巌正徹に対して畏敬の念を持っていたが、東常縁には受け入れがたい歌の性質をあった。
1449年
7月22日
東常縁は正徹が妙行寺辺に旅宿しているところを訪問して、例式歌の事を尋ねる。
1449年
7月26日
正徹が堀河の東家邸を訪問、物語する。東常縁は正徹を「比道の眼目にてこそ侍らめ」と称賛する。
1449年
7月末
兄の安東氏世が東常縁に七夕の歌会について物語する。正徹と或人(具体名不明)が古歌の解釈の違いについて討論。
1449年
8月5日
或人(具体名不明)が堀河の東家邸を訪れて、正徹の歌を語る。
1449年
8月7日
堯孝が東家邸来訪。東常縁は古歌の意について問う。
1449年
8月9日
東常縁は建仁寺常光院を訪問。堯孝の「歌道は天地ひらけしよりの神道なれば、文雅を飾りても真なくばいたづら事なり」という言葉に感銘を受ける。その後、三代集について問う。帰りに、正徹のもとを訪れ、式子内親王の御歌の意について問う。
1449年
9月16日
畠山義忠が来訪し、東常縁に古歌について質問し、畠山義忠が歌について語る。
1449年
9月18日
東常縁は畠山義忠とともに正徹を訪問。
1449年
10月4日
東常縁は堯孝を訪ねる。
1449年
10月9日
刑部大輔家歌会で正徹が詠んだ、「主しらぬいり江の夕人なくてみのと棹とそ舟に残れる」という歌について、「更にうらやましくもなき歌なり」と批評している。「主しらぬ」の「主」とはさまざまな意に取ることができ、「主しらぬ」という言葉から「乱世の声」が連想されると、あくまで「私の所存」という形で批判した。
1449年
10月16日
堯孝が来訪。
1449年
10月22日
東常縁は畠山義忠邸を訪問。
1449年
10月28日
東常縁は正徹を訪ねる。
1450年
3月頃
東常縁は藤原氏保とともに「或人の御方」から届けられた歴代勅撰和歌集選者の影絵・和歌を見た。
1450年
4月1日
東常縁は正徹を訪ねる。
1450年
5月
東常縁は蜷川親元から父の三回忌のために一品経の勧進を依頼される。
1450年
6月18日
東常縁は正徹を訪ねる。
1450年
7月頃
正徹が腫物を病んでいた兄の東氏数の見舞いに来た。翌日、東常縁は兄からの返礼の遣いを任されて正徹を訪ねた。このとき正徹は東常縁に「源氏物語」の歌について語っている。
1450年
10月
東常縁は正徹を訪ねる。
1450年
11月3日
東常縁は堯孝を訪ねる。
1450年
11月7日
東常縁は使いとして堯孝を訪ねる。
1450年
12月2日
東常縁は二条流中興の祖・頓阿の子孫で「古今集」こそ歌道の根幹であるとする堯孝の弟子となり、契約状を提出した。東常縁は前々から正徹の歌については「聊思ひ所の侍」るとする一方で、堯孝については「歌道は天地ひらけしよりの神道なれば、文雅を飾りても真なくばいたづら事なり」という言葉に感銘を受けており、正徹ではなく堯孝に師事したと思われる。
1451年
2月1日
東常縁は堯孝のもとを訪れ、和歌を懐紙に記す際の手順から学びはじめた。これまでも東常縁は父の東益之や兄の東氏数などから歌学を学んでいたと思われるが、二条流歌学の基礎からの習得を志したとみられる。
1451年
3月1日
東常縁は堯孝に歌の題について学ぶ。
1451年
3月3日
東常縁は堯孝に学ぶ。
1451年
10月14日
堯孝が東家邸に来訪。
1451年
10月18日
東常縁は堯孝に学ぶ。
1452年
1月11日
正徹が室町幕府将軍の足利義政に謁見し、足利義尚の命によって歌を進上した。このあと、御所に伺候していた東常縁にも一首進上が命じられ「末とをき君かみ影はあふきみつ我老の年を猶やのはへん」と詠んだ。
1452年
2月1日
東常縁は堯孝に質問。
1452年
2月16日
安東氏世が東家邸を訪問。
1452年
2月18日
堯孝が開いた北野天神での歌会では、東常縁は兄の安東氏世・甥の東元胤と同行で出席した。
1452年7月22日 東常縁は堯孝に質問。
1452年
8月16日
東常縁は堯孝に質問。
1452年
10月19日
東常縁は堯孝に質問。
1454年
7月26日
東常縁は正六位上・左近将監に任官された。
1454年
8月13日
東常縁は従五位下に昇叙した。
1454年
12月27日
東常縁は堯孝より古今伝授された。
1455年
10月頃
千葉胤直(千葉宗家)と原胤房・馬加康胤が対立していることを聞いた室町幕府将軍の足利義政が千葉家の同族で奉公衆の東常縁に鎮圧を命じた。副将として同じく奉公衆の浜春利を同行して下総に下向した。下総国香取郡東庄の東大社へ参詣して戦勝を祈願し、「静かなる 世にまた立やかへならむ 神と君との恵み尽せす」と詠んだ。献歌を終えた東常縁は、下総国守護代の国分憲胤・大須賀憲康らをはじめとする千葉一族と合力して、原胤房を攻めた。
1455年
11月7日
東常縁は「明疑抄」を書写。
1455年
11月13日
東常縁は馬加城と小弓城を攻め落としたが、東常縁方の原胤氏・原胤致が討ち死にした。
1455年
11月24日
東常縁は原胤房と馬加で合戦となり、打ち破った。戦い敗れた原胤房は千葉へと逃れ去った。その後、浜春利を東金城の守りにつかせ、東常縁は東庄へと移った。
1456年
1月
足利成氏は市河城に立て籠もっていた千葉実胤・千葉自胤を追討するため簗田出羽守・南図書助らを市河城に派遣した。これにより古河公方側が有利となり、行方をくらませていた原胤房・馬加康胤も簗田勢に属して市河城に攻め寄せた。このとき、東常縁も救援のため市河城に入っており、寄手の大将から降伏勧告があったが、「籠城しける時よせての大将より降参せよといひけるによみてつかはしける 命やはうきなにかへんよの中にひとりとヽまる習あれとも」と詠んで遣わし、降伏を拒んだ。
1456年
1月9日
市河城が陥落し、千葉実胤・千葉自胤は武蔵国石浜へ、東常縁は東庄の近い下総国匝瑳郡へと逃れた。
1456年
2月7日
体制を立て直した東常縁は匝瑳郡惣社である匝瑳老尾神社に阿玉郷の中から三十石を寄進して戦勝祈願をした。上杉家は下総国に援兵を派遣し、東常縁・上杉勢は馬加城を攻め落とし、原胤房はふたたび行方をくらませた。
1456年
東常縁は鎌倉において「拾遺風躰集」を見て、その中に先祖の東素暹の古歌を発見する。
1456年
6月12日
東常縁は馬加康胤の子の馬加胤持を討ち取った。
1456年
11月1日
東常縁は上総国八幡の村田川にまで逃れた馬加康胤を討ち取った。
1457年
6月23日
上杉家は室町幕府に関東への援軍を要求した。これに応じた室町幕府将軍の足利義政は渋川義鏡を関東探題として関東に下向させた。渋川義鏡は蕨城を拠点に兵を募ったが、関東の諸将は足利成氏に加担するものが多く不足であった。東常縁はこの状況を嘆いて「あつま路や 都のそらの恋しさに 更てなかむる夜な夜なの月 をろかなる身を知りながら 世の中の思ひにたえぬ事そうらむる」と詠んだ。
1461年
6月25日
東常縁が同門の円雅に依頼していた「井蛙抄」の書写終わる。
1461年
12月13日
東常縁が同門の円雅に依頼していた「古今聞書」の書写終わる。
1465年
10月24日
東常縁は1350年以降に写本された頓阿本の後鳥羽院御口伝を書写。
1466年
10月20日
東常縁は前日に届いた宗祇の手紙に対して「馬のことについてはお聞き及びと思うが、馬は「有方」の所望で用意することになったが、この馬は人を乗せたことがない。とくに問題がなければ今月末に京都へ上らす予定だが、付き従う者たちは馬の知識がない者ばかりなので、苦労することだろう。去る秋は上洛予定であって十中七八、美濃国へ帰国する予定だったため、「玉蔵主」と面会の約束を交わしていたが、関東での「子細」によって上洛も帰国もなくなってしまった。在陣中に木戸孝範と面会し、二条流と冷泉流の歌道の伝授についての立ち様を聞いている。聞いたところによれば二条流と冷泉流では伝承については大差がないが、その解釈の深い部分は口伝を得ないことには知り難いと認めている。」と返信をした。
1467年
5月26日
京都では度重なるお家騒動を発端として細川勝元派(東軍)と山名持豊派(西軍)に分かれて争う応仁の乱が勃発した。その余波は近畿にとどまらず全国に及び、東常縁の本拠地である美濃国でも東西に分かれて争いが起こった。
1468年
9月6日
東常縁はもともと足利義政の側近であったことから細川勝元派(東軍)とみなされ、山名持豊(西軍)に味方する美濃国守護の土岐成頼が被官の斎藤妙椿に命じて郡上東家の居城である篠脇城を攻めさせた。このとき篠脇城を守っていたのは兄の東氏数であったが、東氏数は少ない兵を指揮して斎藤勢と戦うも敗れた。東常縁のもとに落城の悲報が届けられると、父の東益之の命日にあわせて心境を「此所は常縁か先祖中務入道素暹、承久二年初めて拝領の旧地なり、代々十世に及ひて遂に他人は知行せさりけるを、我か代に至りて、思ひの外に東国に下向して其様に成り行きけること、無念といふも愚なり、其の折しも、亡き父式部入道素明かために追善の法事を営み、僧を供養しけるか、代々和歌を嗜む家なれは、斯く思ひつつけり。あるが内に 斯かる世をも見たりけり 人の昔の猶も恋しき」と詠んだ。「生きているうちにこのような世を見ることになってしまった。父がいた昔が懐かしく思い出されることだ」という意味が込められている。この歌を見た浜春利は、京都の兄の浜康慶に送る手紙にこの歌を同封した。浜康慶はこれを見て感動し、歌会で東常縁の歌として披露した。
1469年
2月2日

4月頃
東常縁の歌を同じく歌人である斎藤妙椿が人伝えにこれを聞き、「東常縁は、以前から和歌の友である。関東に居住している間に本領がこのようなことになってしまって、さぞ無念に思っていることだろう。自分もかねてから歌の道の数奇ゆえ、情け無いふるまいはできない。東常縁が歌を詠んで送ってくれれば、所領は元どおり返却しよう」と浜康慶に話したという。このことを浜康慶は弟の浜春利への手紙にしたためて申し送ったところ、東常縁はさっそく「堀川や 清き流れを隔てきて すみがたき世を歎くばかりぞ」「いかばかり歎くとかしる心かな ふみまよふ道の末のやとりを」「かたはかり残さむ事もいさかかる うき身はなにと しきしまの道」「思ひやる心の通ふ道ならで たよりもしらぬ古郷のそら」「たよりなき身をあき風の音ながら さても恋しきふるさとの春」「さらにまた たのむに知りぬうかりしは 行末とをき契りなりけり」「木の葉ちる 秋の思ひにあら玉の はるに忘るるいろを見せなむ」「君をしも 知るべとたのむ道なくば なを古郷や隔てはてまし」「みよし野になく雁がねといざさらば ひたふるに今君によりこむ」「吾世経む しるべと今も頼むかな みののお山の松の千とせを」と10首詠み、斎藤妙椿へ送った。斎藤妙椿はこれら歌を受けて感動し、「言の葉に 君か心はみづくきの 行すゑとをらば 跡はたがはじ」との返歌を送った。これを受けた東常縁は、浜慶康に宛てて、「和歌のうらや 汀のもくずもくずにも なをかすならぬほとそ見えぬる」「霧こめし秋の月こそ余所ならめ かさしににほふ古郷のはな」と送ると、浜慶康は「わかのうらやみぎはのもくずもくずにも見えずよみかく玉の光を」「帰来む君がためとや故郷のはなも八重たつ錦なるらむ」と返歌した。このようなやり取りをしていることが室町幕府将軍の足利義政に聞き及んで上洛のお許しがあった。
1469年
4月21日
東常縁は子の東頼数を下総国に残して上洛した。
1469年
5月12日
斎藤妙椿と対面して篠脇城の返還が決まった。このとき、斎藤妙椿から東常縁へ「世の中を遠くはかれば東路に 今すみながらいにしえの人」と一首が贈呈され、東常縁は「世の中を遠くはからば今日までの 君が言葉の花におくれじ」と返歌した。郡上に帰郷した東常縁は「故郷の荒るるを見ても先すそ思ふしる辺あらすはいかかわけこむ」という歌を浜慶康へと送った。戦乱の世、友人が敵味方に別れて争って所領が荒されたとはいえ、雅心のある斎藤妙椿でなかったら城は戻らなかったであろうという、斎藤妙椿へ対する感謝の意がこめられた歌であった。浜慶康はさっそく斎藤妙椿に送ると、斎藤妙椿は、「此頃のしるへなくとも故郷に道ある人そやすく帰らむ」と返歌を送った。これら一連の話は、後の世に美談として語られた。
1470年
5月9日
東常縁は篠脇城と妙見社(明建社)を再建して荒れた所領を急速に復興させた。一連の戦いで、妙見社ならびに尊星王院(別当寺)が燃えてしまったために、鎌倉以来の伝来の書物の大部分がともに焼失してしまい、常縁は再建事業の一環として数多くの歌を書写してこれを納めた。しかし、「古今和歌集」だけは焼失を免れた。
1471年 堀越公方の足利政知につけられて関東に下向して、三島に在陣した。
1471年
1月28日

4月8日
東常縁は宗祇に古今集の講釈を始める。しかし、戦陣における古今集講釈であったため、たびたび中断された。
1471年
2月24日
東常縁の子の東胤氏が病気になり、宗祇への古今集講釈は中断された。宗祇はこのとき三島明神に東胤氏の病気が治るように願い、「なべて世の風を治めよ神の春」と発句し、千句を独吟した。
1471年
3月21日
東常縁は宗祇に古今伝授を行った。
1471年
3月27日
東常縁から初度伝授を受けた宗祇は、三島明神に奉納した(三島千句)。この発句には東胤氏の病気が治ることとともに古今和歌集仮名序で語られる「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、別交の仲を和らげ、たけき武人の心をも慰むるは、歌なり」という和歌の持つ力を三島明神の神威とあわせ、この戦乱を終わらせる(春)ことを願ったものと解釈されている。
1471年
5月8日
兄の東氏数が死亡するが、東常縁は箱根を越えて三島を窺う古河公方勢(小山・結城・千葉ら)への警戒を続けていたので、郡上への帰還は許されない状況にあった。
1471年
6月12日

7月25日
東氏数の忌明けを待ち、上総国村上の大坪基清の懇望によって古今集の講釈を行った。宗祇もこの講釈をともに聞いている。宗祇への初度講釈は合戦の合間を縫った忙しい中での不完全なものであったことが窺える。
1471年
8月15日
東常縁は宗祇へ「以相伝説々伝授僧宗祇畢 従五位下平常縁」の奥書の書状を発給した。
1472年
2月16日
郡上東家の菩提寺の一つで尼寺の東林寺住持「尼宗雲長老」が死亡した。宗雲は東常縁の姉であった。東林寺の後継住持には長姉の宗順が就くこととなるが、宗順も東常縁の実姉であること、東常縁が郡上東家の当主であることを考えると、宗順を東林寺三世と定めたのは東常縁と考えられ、二人の実姉との信頼関係がうかがえる。
1472年
5月3日
東常縁のもとに宗祇が古今集講釈の筆録についての校閲を求めて訪れ、東常縁はこれを確認しながら少々加筆加詞した奥書を認め宗祇に遣わしている。その筆録の内容がよほど東常縁の意に沿ったものであったか、東常縁は宗祇を「門弟随一」と褒賞している。東常縁が宗祇に伝えたものの根幹にあったものは、古今集の仮名序に見られる、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、別交の仲を和らげ、たけき武人の心をも慰むるは、歌なり」という和歌の持つ人を動かしうる不可思議な力をもととし、さらに、「正直」というおのずと神の加護を受け得る人の気質を取り入れた考えを取り入れたようである。 三島での講釈のはじめ、東常縁は宗祇にこの考え方を伝えており、「天下は正直の二字にておさまる物也、然バ、此集ハ正直を姿とせり、天地人を正直に取時ハ、天地は正、人は直なり、此国のことわざなれば、よむ所の歌も正直を可守也、尤歌人の可思処也」と講釈したようである。実はこの「正直」を根本に据えた考え方は宗祇も以前から持っており、三島での講釈を受ける前に、「長尾平六」へ宛てた歌道書「長六文」に次のように述べている「天地をもうごかし目にみえぬ鬼神をもあはれとおもはするみちなれば、ゆめゆめ正直にあらずしては不可叶事也」。
1472年
6月29日
東常縁は宗祇に「伊勢物語」の「当流之説」を伝授している。
1472年
8月15日
東常縁は宗祇に「伊勢物語」の講義をしており、それからまもなく宗祇が三島を離れて美濃国へ向かった。これは東常縁が美濃国郡上へ戻る予定がすでにあったことを意味する。
1473年
1月7日
東常縁は大坪基清に「古今集相伝一流」の説を授けており、東常縁はこの頃までは三島に在陣していた。この「古今集相伝一流」の奥書に東常縁ははじめて「従五位下下野守」と署名する。この任官はこれまでの防戦での勲功であろうと思われ、この「下野守」は東家惣領の官名「中務丞」「下総守」と並ぶ由緒あるもので、東常縁には父の東益之と同じ下野守が選ばれた。
1473年
2月頃
東常縁は三島の陣所を引き払い、郡上へ向けて出発した。
1473年
3月
東常縁は郡上の館に到着。先に郡上に入っていた宗祇と合流した。そのときの宗祇の発句「東下野守の山下にて、春の末つかた、祝の心を 春のへん千代は八峰のつばき哉」とある。暖かい日和の建間もない木の香漂う東家の館での祝の歌であろう。さまざまに掛けられた「祝」のひとつが、東常縁の下野守就任の「祝」であった。
1473年
4月18日
東常縁は宗祇への古今伝授がすべて完了する。この古今伝授の際に詠まれた宗祇の発句「山田庄栗栖妙見の社にて」に「花ざかりところも神のみ山かな」と東常縁と「さくらににほふみねのさか木葉」と宗祇が詠んだ。この古今伝授は妙見社を以て行われた。神代から受け継がれた和歌の心という考え方を受け、氏神妙見の神前にて伝授を行った。
1473年
8月初旬
宗祇が上洛をすることになり、東常縁と宗祇は宮ヶ瀬の地で連歌のやり取りを交わした。宗祇が「身をあはせともなふ人の世にもあらは」東常縁は「いにしへ今をかたりてよ君」さらに宗祇が「紅葉々のなかる々龍田しら雲の」東常縁は「花のみよし野思ひ忘るな」続けて宗祇が「おろかなる事をはをきてつたへくる」東常縁は「跡久堅の月を見よ君」と詠んだ。東常縁は宗祇を郡上郡南端まで送って行ったと思われ、次の連歌はその途次に立ち寄った那比新宮でのもので、東常縁が宗祇とともに領内巡検をした際の歌ともされるが、この歌には夏の深緑の神々しさの中に哀惜の感が読み取れる。東常縁は「神もこゝにいくよか夏をすぎの森」宗祇が「宮井はなれぬ山ほととぎす」と詠んだ。杉が生い茂る森に鎮座した幾世も経た古社の夏の情景を詠みつつ、去り行く宗祇への惜別を詠む東常縁と、郡上再訪を誓う宗祇の掛合いの歌となっている。東常縁と宗祇はこの那比新宮から相生に戻り、長良川を南下し東家の菩提寺の乗性寺も訪れ、ここで東常縁と別れた宗祇は近江国を経て奈良へ下り、年末に京都東山へ入った。
1475年 東常縁は武蔵国に下って再び戦いに身を置くことになる。在陣しつつも、知己の僧侶や被官らに古今集講釈を行った。
1477年
4月5日
東常縁は先に三島で古今講釈した大坪基清をはじめとして、禅宗の素暁、浄土宗の宗順、被官の日置胤道・某信秀(姓不詳)らに講釈を行った。大坪基清への古今集伝授はこの頃で「十ノ物六」までの伝授に留まっている。
1477年
5月20日
東常縁は美濃紙二束を伊勢貞宗に贈る。
1478年
8月15日
東常縁は足利義政・足利義尚に太刀を贈る。
1478年
8月21日
東常縁は病気を患っていたが、長男の東頼数に古今伝授を行った。
1478年
8月23日
東常縁は東頼数に三代集(古今、後撰、拾遺和歌集)の題号口伝を行った。当時どこにいたのかは不明だが、この頃までに東頼数に家督を譲り、美濃国郡上に隠遁したと考えられる。
1480年
5月
東常縁は後土御門上皇の勅諚を受けた室町幕府将軍の足利義尚の御教書に従って上洛。御所に上って後土御門上皇に古今集の講釈を行い、さらに勅命によって関白の近衛政家・内大臣の三条公敦・将軍の足利義尚らにも講釈、京都東山において古今伝授を行った。これを俗に「東山伝授」という。その後の東常縁はおもに京都の四条堀川邸に住んでいた。
1483年
1月2日
東常縁は自邸で歌会をする。この歌会を最後に美濃国郡上に戻ったとされる。
1484年
3月16日
80歳で死亡。東家菩提寺の木蛇寺に葬られた。
人物 東常縁は幕府奉公衆として武人の才覚を如何なく発揮し、下総国の紛争時には東西に駆け回って戦陣に日暮し、在地国人たちとの折衝を行うなどの交渉力をも併せ持った人物。しかし、宮仕えの身としてやむをえないながらも、本心では意に沿わないことを行う場合などには、かなり弱みを見せたり愚痴や嫌味、泣き言まで飛び出す、非常に人間味の溢れる人物である。
生前はとくに歌人として活動していたわけではないが、二条流の堯孝門に属して基礎から学び直すなど研鑽を重ね、武家歌人としての名は知られていた。しかし、東常縁自身は歌人として積極的に活動する気はなく、冷泉持為門下の武家歌人・木戸孝範が自身が世に知られていないことを残念に思っていることと比べ、自分はそのような気も抱けず、及ばないことだと述べている。おそらく東常縁の当時の評価は二条流堯孝の門下の一人に過ぎず、高名ではなかったとみられる。しかしその死後、それまで内々で行われていた「古今伝授(切帋伝授)」が一種の「格式」としてもてはやされ、その祖として、実像以上に評価が膨れあがることになる。そして、この「切帋伝授」を大々的に利用して歌道の隆盛に尽力したのが、連歌師宗祇であった。おそらく宗祇は二条流・冷泉流などに分派していた御子左流歌道の源流を、東常縁に求めたのだろう。東家の「家説」が、御子左流が分派する以前の中納言の京極定家や大納言の中院為家の解釈を受け継いだものであると伝わっていたことを知り、東常縁をその師と定めたとみられる。歌道の隆盛とその根底にある平和への憧憬を広めるため、この古今伝授を積極的に利用して朝廷貴族や有力大名、和歌の好士などと交わり、室町時代中期の歌壇形成に大きく関わっていくことになる。