小栗助重(おぐりすけしげ)
生年月日 | 1413年 |
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没年月日 | 1481年3月9日 |
幼名 | |
通称 | 小二郎 小三郎 |
別名 | 自牧 宗湛 宗丹 |
官位 | |
家系 | 常陸小栗家 |
父 | 小栗満重 |
母 | |
正室 | |
側室 |
年表
1413年 | 常陸小栗家の14代目の小栗満重の長男として生まれる。京都扶持衆。 |
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1423年 | 父の小栗満重が鎌倉公方の足利持氏に対し反乱を起こして自害すると常陸小栗家は没落した(小栗満重の乱)。小栗助重は三河小栗家の元に落ちのびた。 |
1441年 4月16日 |
結城合戦で室町幕府軍として武功を立てたことにより、旧領への復帰を許され、家督を継いだ。 |
1442年 | 悲運の死を遂げた父の小栗満重と家臣(十勇士)の霊を弔うため、菩提寺である太陽寺の境内に九層の多層塔と五輪塔を建立した。 |
1455年 閏4月 |
鎌倉公方の足利成氏の攻撃を受けて居城の小栗城が陥落し、本貫地である小栗御厨を失った。まもなく出家して京都の相国寺に入り宗湛と号した。相国寺で周文に水墨画を学んだ。 |
1462年 | 京都の相国寺松泉軒の襖絵を描いて室町幕府8代目の足利義政に認められた。 |
1463年 | 周文の跡をついで足利将軍家の御用絵師となった。その後、中央漢画界の権威として高倉御所・雲沢軒・石山寺などで襖絵を作成した。 |
1473年 | この頃までの作画の記録は残っているが、宗湛作の遺品は発見されておらず、宗湛の書き残したものを子の宗継が完成させた旧大徳寺養徳院の襖絵である「芦雁図」6面のうち2面のみである。周文が高遠山水を得意としたのに対し、宗湛は平遠山水を特色とした。 |
1481年 3月9日 |
69歳で死亡。 |
芸能 | 浄瑠璃や歌舞伎で知られる小栗判官のモデルとされる。 |