一万人の戦国武将

千葉胤賢(ちばたねかた)

生年月日
没年月日 1455年9月7日
幼名
通称
別名 了心月山(法名)
官位 中務大輔
家系 下総千葉家
千葉兼胤
上杉氏憲の娘
正室
側室

年表

1420年頃 千葉家の15代目の千葉兼胤の三男として生まれる。
1455年
1月末頃
かねてから親上杉派であった千葉胤直・千葉胤賢の兄弟は足利成氏によって享徳の乱が勃発すると足利成氏討伐に参加したことから室町幕府将軍の足利義政から激賞された。千葉胤直と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた叔父の馬加康胤と重臣の原胤房の連合軍に亥鼻城を攻撃された。
1455年
3月
室町幕府は管領の細川勝元の意向で足利成氏の討伐令が上杉家をはじめ、周辺の守護である駿河国守護の今川範忠・信濃国守護の小笠原光康・下野国守護の宇都宮等綱・下総国前守護の千葉胤直に下された。後花園天皇から足利成氏追討の綸旨と御旗を得たために、足利成氏は朝敵となった。
1455年
3月20日
以降
馬加康胤・原胤房に攻められていた亥鼻城が落城し、千葉胤直・千葉胤賢・千葉胤宣・円城寺尚任は千田荘に逃れ、多古城・志摩城に籠城した。
1455年
8月
下総千葉家は援軍に駆けつけた大掾頼幹・大掾幹正の父子と合流して馬加康胤・原胤房と戦ったが、大掾頼幹・大掾幹正・円城寺尚任・円城寺直時・円城寺日向守・狩野朗典らは討死した。
1455年
8月12日
馬加康胤に攻められた千葉胤宣は多古城に籠城していたが、馬加康胤は、城を遠巻きにして兵糧を止める長期包囲の作戦をとった。籠城の兵は日に日に困窮し、逃亡するものが相次ぎ、20人余りになり陥落した。千葉胤宣は城の近くの阿弥陀堂で自刃した。
1455年
8月15日
原胤房に攻められた千葉胤直・千葉胤賢は志摩城に籠城していたが、千葉胤直は大野小五郎らと東禅寺に走り一族郎党とともに自刃した。千葉胤賢は子の千葉実胤・千葉自胤とともに脱出した。
1455年
9月7日
千葉胤賢は小堤城で自刃したが、千葉実胤・千葉自胤は八幡荘の市河城まで逃走した。下総千葉家は馬加康胤に奪われ、千葉実胤・千葉自胤は武蔵千葉家となった。