一万人の戦国武将

岩松持国(いわまつもちくに)

生年月日 1417年以前
没年月日 1461年5月
幼名 土用安丸
通称
別名
官位 左馬助
左京大夫
右京大夫
家系 岩松家
岩松満泰
養父 岩松満長
正室
側室

年表

1417年
以前
岩松家の岩松満泰の長男として生まれる。幼名は土用安丸。
1417年 岩松家当主の岩松満純が上杉氏憲に与して敗死する(上杉禅秀の乱)と、岩松満国から岩松家の後継者に指名された。岩松満純が反逆者となったため、無関係の幼少の岩松持国を擁立して一族に罪が及ぶことを避けるためと見られる。伯父の岩松満長の養子となり、一族が岩松持国を支える体制を取り、所領は岩松満長を経由して岩松満国に渡されることとなる。
1435年 この頃までに元服して、鎌倉公方の足利持氏の偏諱を受けて左馬助持国(「国」は岩松満国の1字)と名乗り、足利持氏の部将として活動した。
1440年 結城合戦で岩松持国は結城家側に立ち、室町幕府軍と戦ったが、岩松満純の子の岩松家純は室町幕府軍に参加した。これまで家督問題の蚊帳の外に置かれていた父の岩松満泰が室町幕府軍に応じて岩松家の家督を狙ったことが伺える文書が存在する。
1441年 結城合戦で結城城が落城したが、6代目将軍の足利義教が嘉吉の乱で暗殺されたため、岩松持国は討伐を免れた。
1447年
3月
鎌倉府が再興されると足利成氏に従った。
1454年
12月27日
足利成氏の命で岩松持国は管領屋敷を襲撃し、長尾実景・長尾景住の父子を殺害した(享徳の乱)。
1455年 古河公方となった足利成氏の元で上野国で上杉軍と戦った。
1458年 足利政知が関東に下向し、岩松家純もこれに従い下向した。岩松家純と家臣の横瀬国繁は足利政知と執事の渋川義鏡と協力して岩松持国に帰順の書状を送った。
1458年
8月
岩松持国は所領安堵が認められたので室町幕府に寝返った。
1459年
10月14日
太田庄の戦いで息子とともに上杉側として参戦した。
1461年
5月
足利成氏に再び寝返ろうとしたところを長男の岩松次郎とともに岩松家純に暗殺された。家督は次男の岩松成兼が継いだ。